岩国・柳井・防府〜山口を旅する(2)

光市から、次に向かったのは周南市。徳山港でフェリーに乗り、大津島へと渡った。島には太平洋戦争末期に造られた「回天訓練基地跡」や「回天記念館」があり、人間魚雷・回天にまつわる悲劇の歴史の一端に触れることができた。
大津島から戻ったあとは国道2号線を西へとひた走り、防府市へ。防府は、奈良時代に律令国家が成立すると周防国の国府や国分寺がおかれ、以来、周防の中心都市として栄えてきた歴史をもつ。日本最初の天満宮(菅原道真を祀る神社)「防府天満宮」や、江戸時代に長州藩の本拠・萩城下と防府を結んだ萩往還の終点に残る「英雲荘(三田尻御茶屋旧構内)」や「三田尻御舟倉跡」、大正時代に完成した毛利公爵家の邸宅「旧毛利家本邸」「毛利氏庭園」など、中世から近世、近代にいたる時代ごとの歴史スポットが点在し、車で順々に巡っていった。

ドライブルート

光市−(山陽自動車、県道347号線など)−周南市中心部−(県道172号線、国道2号線など)−太平山−(県道184号線など)−防府市中心部 ……【岩国・柳井・防府〜山口を旅する(3)に続く】

今回行程約60km

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回天訓練基地跡と回天記念館

徳山港の南西10キロ、瀬戸内海に浮かぶ大津島には、フェリーもしくは巡航旅客船で渡っていくことができる。所要時間は、フェリーで45分ほど(徳山〜馬島)だ。

  • 徳山港から大津島へ渡るフェリー「新大津島」

  • 大津島では、刈尾港を経由して、目的地の馬島港へ向かう

島南部の馬島港に着き、まず向かったのは、歩いて10分ほどのところにある「回天訓練基地跡」。回天とは、太平洋戦争末期に魚雷を改造して開発された特攻兵器(人間魚雷)で、全国に4ヵ所の訓練基地が開設。大津島には、その当時の施設が唯一、現存している。
トロッコのレール跡が残る長いトンネルを抜け、島の西側へ。トンネル出口から延びる橋の先に、かつて訓練基地だった無機質なコンクリートの構造物が海に浮かぶように建っていた。訓練基地の前身は、昭和12年(1937)に開設された魚雷発射試験施設で、発射試験場の建物は昭和14年(1939)に完成。その後、回天の開発にともなって、昭和19年(1944)に回天訓練施設として転用されるようになった。基地跡には、回天を海上に降ろすためのクレーンの基礎跡などが残っていた。

  • 馬島港で迎えてくれた看板

  • 回天訓練基地跡へ向かうトンネル。
    地面には、整備済の回天を運んだトロッコのレール跡がうっすら残る

  • トンネル出口から望む、回天訓練基地跡

  • 訓練基地はもともと魚雷の発射試験場で、
    建物内には魚雷の発射口も残っていた

  • 訓練基地跡の全景

大津島小・中学校の校舎のそばを通り、すこし山を登ったところには「回天記念館」があった。館内では、隊員たちの遺品や遺書、遺影のほか、当時の歴史や時代背景を紹介するパネルを展示。建物前には、回天一型の実物大のレプリカも展示されていた。
/記念館入館料300円

  • 大津島小・中学校のグラウンドには、かつて回天の整備工場や兵舎があった。
    手前の階段や塀は当時のもの

  • 回天記念館。入口に向かう道の両側には、
    亡くなった回天搭乗員・整備員などの銘碑が並ぶ

  • 回天記念館の内部。
    搭乗員の遺筆や遺品、遺影などを展示

  • 回天一型の実物大レプリカ

  • 記念館前に建つ回天碑。
    「回天」の文字は、開発にたずさわった黒木博司大尉の遺筆から取ったものだそう

大平山山頂公園

眼下に瀬戸内海も遠望できる絶好のロケーション

防府市街へと入る前に、「大平山山頂公園」に立ち寄った。
大平山は、市街地の東側にそびえる防府市の最高峰で、標高は631メートル。山頂部には多くの電波塔が建つ。ふもとの牟礼から山頂までは車道が整備されて、国道2号線の分岐から15分ほどで登っていくことができる。
山の頂にある公園だけあって、園内からの展望はすばらしく、眼下には防府平野や瀬戸内海を一望に。晴れていれば、九州の国東半島や四国の佐田岬まで見渡すことができるという。ツツジの名所としても有名で、開花期の5月には斜面に植えられた10万株のツツジが色鮮やかに咲き誇り、一帯をピンク色に染めるそうだ。

  • 山頂に建つ電波塔群

  • これから向かう、防府平野を見下ろす

旧毛利家本邸と毛利氏庭園

防府市街に入り、まずは「旧毛利家本邸」と「毛利氏庭園」に向かった。
旧毛利家本邸は、明治維新後、旧長州藩主である毛利公爵家の本居にふさわしい邸宅として、維新の元勲・井上馨の奔走によってこの地が選定され、大正5年(1916)に完成。本館は、江戸期の御殿造りの様式を取り入れた近代和風建築で、木曽御料林の桧、屋久島の神代杉、台湾の欅などの銘木・良材を使用。金具や壁紙、照明器具なども贅をつくした意匠で仕上げられており、大正・昭和天皇皇后両陛下の行幸の際には宿泊所として使われた。部屋数60、畳敷780枚という壮大な邸宅である。
本邸の一部は「毛利博物館」として、毛利家に代々伝わる貴重な資料を展示するスペースに。戦国の名将・毛利元就以来、西の雄として名を馳せた毛利家には、雪舟の「四季山水図」(国宝)をはじめとする美術工芸品の至宝の数々や、三本の矢の逸話のもとになった元就直筆の「三子教訓状」などの歴史資料が、あわせて約2万点遺されている。博物館の2つの展示室では、それら貴重な資料を定期的に入れ替えながら順次公開している。

  • 本邸の玄関

  • 1階の客間。天井、照明、金砂子蒔の壁模様、畳縁など
    あらゆるところに意匠を凝らす

  • 2階の客間からの眺め。庭園が一望に

  • 大理石を用いた浴室

本邸を見学したあとは、いったん外に出て、中雀門から内庭へ。
毛利氏庭園は、自然の地形・植生に人工的な作庭を加えて両者の調和をはかっている、明治・大正期の技術の粋を集めた庭園で、三田尻湾や瀬戸内海などの自然を背景・借景としているのが特徴。中央には満々たる水をたたえた大きな瓢箪池があり、池の周囲を巡りながら四季折々の表情を見せてくれる自然を堪能できる。丘あり、滝あり、せせらぎあり、起伏に富んだ2万5,000坪の広大な敷地を有し、邸宅同様に旧大名家にふさわしい見事な庭園だった。
/本邸・博物館・庭園 共通入館料1,000円

  • 内庭から本邸を眺める

  • 自然の起伏を活かし、
    周囲の山並みと一体になった見事な景観

  • 瓢箪池のまわりを散策する

  • 庭園では四季折々の花が迎えてくれる。
    訪れたときは、椿が咲いていた

周防国分寺

旧毛利家本邸から西へ600メートルほど走ると「周防国分寺」へと着く。
奈良時代の天平13年(741)に発せられた聖武天皇の勅願によって、国ごとに建てられた国分寺のひとつで、周防国司や大内氏、毛利氏といった歴代国主に厚く崇敬されてきた。金堂や仁王門をはじめ、創建当時の伽藍をほぼ維持していることは全国の国分寺の中でも珍しく、そのため境内は国の史跡に指定されている。
仁王門をくぐり、境内へと入ると、正面に荘重な大金堂が建つ。内部の拝観もでき、本尊の薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、四天王立像をはじめ、平安、鎌倉、室町時代に造られた貴重な仏像が数多く安置されていた。
/金堂拝観料500円

  • 仁王門。文禄5年(1596)に毛利輝元が建立し、
    明和4年(1767)に毛利重就が修築した

  • 五本線の筋塀は、皇室に由来する格式を表すそう

  • 堂々たる金堂。天明8年(1788)ごろ、
    長州藩7代藩主・毛利重就によって建立された

  • 幕末の京都で起こった、禁門の変で戦死した藩士の招魂碑。
    こうした碑からも長州の歴史に触れることができる

防府天満宮

次に訪ねたのは、学問の神様・菅原道真公を祀り、京都の北野、福岡の大宰府とともに日本三天神のひとつに数えられる「防府天満宮」。周防国分寺からさらに西へ500メートルほど行ったところが参道の入口であった。 防府天満宮は、日本で最初に創建された天満宮として有名。防府と道真とのかかわりは、彼が九州大宰府への西下の途上、周防国の国司を頼って防府の勝間の浦に立ち寄ったことにはじまる。のちに道真が大宰府で亡くなると、勝間の浦に神光が現れ、国司は延喜4年(904)に道真の霊魂を祀る「松崎の社」を建立。この神社がのちに防府天満宮となる。
青銅鳥居をくぐり、参道の石段を上っていくと、鮮やかな朱色の楼門が現れる。楼門の奥には社殿が建つ。これらの建物は昭和38年(1963)に再建されたものだという。訪れたのが3月下旬だったためだろう、「合格御礼絵馬奉納所」にはたくさんの絵馬や両目が描かれたダルマが奉納されていた。

  • 参道脇には、まちの駅「うめてらす」が。
    店内では、おみやげの販売、カフェ、観光案内などのサービスを提供する

  • 朱色が鮮やかな楼門

  • 菅原道真公を祀る社殿

  • 日本最初の天満宮であることを示す石碑。
    ちなみに「扶桑」とは「日本」のこと

  • 境内では早咲きのサクラがすでに咲いていた

  • 合格御礼絵馬奉納所。
    3月下旬とあって、たくさんの絵馬が奉納されていた

山頭火ふるさと館

大正から昭和初期にかけて全国を放浪しながら数多くの句を詠んだ、自由律俳句の代表的な俳人・種田山頭火。防府は彼の生まれ故郷であり、防府天満宮からほど近いところに「山頭火ふるさと館」が建つ。
館内では、山頭火の生涯をパネルで紹介するとともに、山頭火が句を投稿した雑誌、種田酒造場で使用していた徳利、晩年に出版した句集などの実物資料のほか、日記や句集などのレプリカ資料も展示。デジタル資料として、七句集と日記の一部を閲覧することもできた。
ふるさと館から歩いて8分ほどのところには、石碑と案内看板が立つのみであったが、「山頭火生家跡」も残されていた。
/入館料300円

  • 山頭火ふるさと館。
    防府天満宮の参道入口から西へ200メートルほどのところにある

  • 山頭火の生家跡は、ふるさと館から徒歩8分ほど

英雲荘(三田尻御茶屋旧構内)

江戸時代、長州藩の本拠である萩城下と瀬戸内海の玄関口であった防府の三田尻を結ぶ全長約53キロの「萩往還」という街道が整備された。萩往還は参勤交代に使われるなど、山陰側と山陽側を結ぶ重要な道として、江戸期を通じて多くの人々が行き来した。
三田尻にあって、江戸の面影を今に伝えるのが、かつての御茶屋である「英雲荘(三田尻御茶屋旧構内)」である。
御茶屋とは、藩主の参勤交代や領地視察の際の休憩・宿泊、来客迎賓のために使われた藩の公館で、ここ三田尻の御茶屋は承応3年(1654)に長州藩2代藩主・毛利綱広が設置。7代重就のときには隠居後の住居として利用すべく大規模な改修工事が行われ、「三田尻御殿」と呼ばれるほどの規模を誇った。幕末には、政変によって京都を追われた三条実美ら七卿が滞在したり、多くの志士たちが構内の「招賢閣」に集まるなど、重要な拠点に。明治以降は毛利家の「三田尻別邸」として使用された。なお、現在の「英雲荘」という名は、7代重就の法名に由来する。
現存する建物は、天明年間(1781〜1788)の図面にも残る「大観楼棟」を中心に、明治期に建てられた「奥座敷棟」、大正期に建てられた「玄関棟」「台所棟」で構成される。庭には、明治時代にほかから移築された茶室「花月楼」が建つ。
/観覧料300円

  • 庭から英雲荘を眺める。
    真ん中の檜皮葺の建物がもっとも古い大観楼棟

  • 大観楼棟の内観。廊下も畳敷き。右は御書院一ノ間

  • 藩主も座っただろう御書院一ノ間の奥からの眺め。
    家臣が座した二之間と三之間、中庭や内庭がよく見渡せる

  • 細部の意匠にもこだわって造られている

  • 「招賢閣相見図」(複製)。
    御茶屋構内の招賢閣で、長州藩主毛利敬親と京都から
    落ち延びた七卿が対面した場面を描いている

  • 茶室「花月楼」の小間(三畳台目)

三田尻御舟倉跡

三田尻には、江戸時代、長州藩の御舟倉が置かれていた。御舟倉とは藩の水軍の本拠地で、藩主の御座船や軍船が常置されたほか、船の建造や修理ができる設備も備え、周辺には水軍の将校や船頭・船大工などの関係者が居住していた。明治以降に建物の解体や埋め立てが進み、現在の町並みには往時の面影はほとんど残っていないが、「三田尻御舟倉跡」にその名残を見ることができる。
三田尻の港は、海上交通の拠点であったため、たびたび歴史的な出来事の舞台となっている。江戸末期の元治元年(1864)には、藩の方針に反旗を翻して下関の功山寺で決起した高杉晋作率いる決死隊が、三田尻の海軍局(前年に御舟倉から改編された)を襲撃し、軍艦を奪取。その後の維新への口火を切った。また、薩長同盟の前年(慶応元年/1865年)には、薩摩藩の名義で長崎の貿易商グラバーから購入した7,300挺の銃が海軍局の倉庫に荷揚げされた。慶応3年(1867)には、討幕を目指す薩長軍の艦隊が次々と三田尻から出港し、翌年の鳥羽・伏見の戦いへとつながっていく。
そんな激動の幕末に思いを馳せながら一帯を歩いていると、町並みに往時の面影はなくとも、感慨深い気持ちになってくる。

  • 御舟倉跡。現在は住宅や公園に囲まれ、往時の面影はほとんどない

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記事・写真:谷山宏典 取材:2019年03月

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