旧東海道・品川宿を行く

遠くへ行くばかりが旅ではないと思い立った。都心である品川も、歴史のある神社仏閣が多く、狭い路地には昔を偲ぶ風情もある。旧東海道の通りには昔懐かしい下駄や煎餅、江戸前の魚を扱う店などもある商店街が続く。国道15号線にひっそりと残る大木戸跡は、かつて江戸府内への入り口として設けられた大木戸の跡だ。現在の品川は江戸の郊外で、旅支度をした人の一夜の宿でもあり、その旅人を送迎する親戚縁者の行楽地でもあった。

西暦2020年、東京オリンピックまでにと、品川−田町間に新駅が誕生するという計画だ。すでに動きだした建設現場を眺めながら、今回はさらに変貌する品川宿場町界隈を散策。
さすが大江戸城下につながる場所、江戸時代はもちろんのこと、幕末、明治、大正の偉人たちの墓所をはじめ、由緒ある寺の多いことに気付かされた。
残念ながら都心だけに寺などの参拝用の駐車場はほとんどない。しかし、商店街などには時間貸しのパーキングがある。

ドライブルート

品川−北品川(ニッポンレンタカー営業所)−青物横丁−鈴ヶ森−東海寺−東海路墓所−北品川

行程 約13km

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高輪大木戸跡

江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口に建てられたのが起源といわれ、享保9年(1724)に現在地に移された。その木戸跡は、都営地下鉄浅草線泉岳寺駅より少し田町寄りに出た、国道15号線沿いにある。
当時は海沿いにあり、江戸の南の出入り口として、道幅約6間(約10m)の旧街道の両脇に石垣が築かれ、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。そのため夜は門が堅く閉ざされた。いまは石垣を残すのみだが、東京に残された数少ない江戸時代の遺跡として大切に保存されている。

  • 高輪大木戸跡

    高輪大木戸跡

  • 国道15号線の表示

    国道15号線の表示

品川宿入り口

八ツ山橋のたもと、京急電鉄の踏切前には東海道五十三次の宿場町が刻まれたミニ東海道がつくられている。これより旧街道(現在は「北品川本通り商店会」と呼ばれている)のはじまりだ。八ツ山橋から京急線立会川まで約4km、江戸の刑場の一つであった鈴ヶ森までさらに約1kmにはいまもたくさんの名所旧跡が残されている。

  • 八ツ山橋。JRの複数路線をまたぐ

    八ツ山橋。JRの複数路線をまたぐ

  • 品川宿に入る

    品川宿に入る

路地裏には煉瓦塀が残っている

路地裏には煉瓦塀が残っている

ただし、観光地としての品川宿の名は知名度が低く、これらの貴重な歴史遺産も、細い路地、張り出した民家や樹木に遮られ、また開発のため移動させられるなどして、それらを見つけ出すことが困難なものもある。
宿場町通り目黒川に架かる品川橋たもとに案内所「品川宿交流館」があるので、地図を入手し、過去と現在の品川を確かめよう。
/TEL 03-3472-4772

  • 京浜急行の踏切から街並みが始まる

    京浜急行の踏切から街並みが始まる

  • 案内所は旗が立っている

    案内所は旗が立っている

  • 今や珍しい下駄専門店

    今や珍しい下駄専門店

  • 昭和初期の建物もまだある

    昭和初期の建物もまだある

品川浦舟だまりには屋形船が舫っていた

品川浦舟だまりには屋形船が舫っていた

品川浦船だまり

街道から少し下ったところに釣船や屋形船がびっしりと係留された運河がある。運河脇の狭い路地には、かつては1,000軒も軒を連ねていたといわれる料亭跡が残るが、いまは民家となっている。
近くには利田神社(かがたじんじゃ)の小さな社と、鯨の頭部模型を置いた「鯨塚」のある台場公園がある。寛政10年(1798)、品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑だ。体長9間1尺(約16m)の大鯨で、第十一代将軍家斉が浜御殿(現・浜離宮)で見物したという。当時は品川沖では鯨漁は行われていなかった。

  • 歌川広重の版画にも登場する舟宿

    歌川広重の版画にも登場する舟宿

  • 医道五十三次の看板

    医道五十三次の看板

  • 鯨塚

    鯨塚

  • 鯨塚の横は「クジラ公園」になっている

    鯨塚の横は「クジラ公園」になっている

これより少し下ると御殿山下台場跡がある。嘉永6年(1853)、ペリー率いる4隻の黒船が浦賀へやって来た後、幕府は品川沖から深川州崎にかけて、台場を11ヶ所造る予定が、第6台場までは完成したものの、途中で中止。その代わりの一つとしてこの御殿山下台場が造られた。
台場の上にあった灯台は、明治3年(1870)に日本で3番目に造られた洋式灯台を模擬縮小したもので、後に台場跡に建てられた小学校敷地内に置かれた。本物は国の重要文化財として、愛知県犬山市の明治村に移設されている。

  • 利田神社

    利田神社

  • 御殿山下の模擬灯台

    御殿山下の模擬灯台

寄木神社

寄木神社

善福寺

この宿場町には、西伊豆・松崎出身の鏝絵(こてえ)名手“伊豆の長八”が描いた鏝絵が2ヶ所ある。善福寺はかなり荒れているが本堂の門にあたる部分には、いまなお立派な龍の彫り物が睨みをきかせている。ただし長八の作品は門の上に描かれている龍だが、保存状態があまりよくないことが残念だ。
もう一方の日本武尊、弟橘姫命が祀られる寄木神社は、目黒川の近くに鎮座する。本殿は土蔵造りで、その土蔵の扉の裏側、向かって左側に「ニニギノミコト」「アメノウズメノミコト」、右に「サルタヒコノミコト」が長八の手によって描かれている。普段は扉が締めてあり見ることができないが、社務所に人がいる場合は声をかけて扉を開けてもらうこともできる。

  • 伊豆の長八が描いた善福寺の鏝絵

    伊豆の長八が描いた善福寺の鏝絵

  • 寄木神社の鏝絵(伊豆の長八)

    寄木神社の鏝絵(伊豆の長八)

法禅寺

門の左に「品川小学校発祥之地」という表示があり、寺の境内に入ると「流民叢塚」の碑や古いたくさんの地蔵尊の脇に碑の説明板がある。戦国時代に建立され、行き倒れた名もない武士や民、旅人などのための供養塔だったが、後に天保の大飢饉で亡くなった人たちの供養塔となった。
日本中を襲った悲惨な飢饉で村ごと飢え死にしたところも少なくなかった。品川宿にはそうした山村から流浪してくる人も多く、ここまで辿り着いて病や飢えで倒れた人が891人にも及んだという。これらの死者はここ法禅寺と目黒川を越えた国道15号線の先にある海蔵寺(昔、投げ込み寺とも呼ばれた)に葬られた。海蔵寺は品川の獄中での死者や刑場鈴ヶ森で処刑された一部の人も埋葬していた。別名「首塚」ともいわれ、亡くなっても行き場のない人たちを葬った寺でもある。

  • 法禅寺は品川小学校発祥の地

    法禅寺は
    品川小学校発祥の地

  • 行き倒れ、飢饉で亡くなった人などを供養する

    行き倒れ、飢饉で亡くなった人などを供養する

  • 海蔵寺の首塚

    海蔵寺の首塚

品川神社

第一京浜(国道15号線)の御殿山の陸橋をわたり、京浜急行・新馬場駅北西にある立派な神社。創始は文冶3年(1187)で、源頼朝が航海安全を願って建立したと伝えられている。その後、三代将軍家光が東海寺を建立、品川神社をその鎮守とし、以降社殿の修復などは幕府が行った。
愛宕神社同様、江戸湾を見渡せる高台にある品川神社は、すぐ前が東海道、そして品川の海が広がるという立地。「火消しの記念碑」や、また吉原に次ぐ遊興の地でもあった品川らしく、料理人たちの作った「包丁塚」もある。その他、備前焼きの一対の狛犬は、文政13年(1826)に備前から運ばれたもの。作者や窯元の名が刻まれている。
江戸時代に大流行した富士登山(冨士講)のミニ版として、長い石段の脇に富士に見立てた登山道が作られている。実際の富士登山が叶わない人の登山体験場だったという。いまでこそ高層ビル群に囲まれ海すらみることができないが、当時は品川富士の山頂からは、東京湾が一望できただろう。

  • 品川神社

    品川神社

  • 備前焼の狛犬。職人の名も彫られている

    備前焼の狛犬。職人の名も彫られている

  • 品川神社のミニ富士山。溶岩で固められている

    品川神社のミニ富士山。溶岩で固められている

  • 包丁塚

    包丁塚

板垣退助の墓

品川神社の裏、境内から本殿の横を抜けブロック塀の間にわずかに開けられた通路を通りぬけたところにある。元は東海寺の末寺、光源院という寺があり品川神社はその寺域だった。板垣退助は、死後はこの寺の墓地である今の場所に埋葬されることを望んだという。

訪れる人も稀な板垣退助の墓

訪れる人も稀な板垣退助の墓

だが肝心の寺は関東大震災で被害を受け、東京中心部の寺とともに集団移転したため、飛び地になったままのところに墓地だけが残ったという。しかし、いまはどういう訳か寺から墓地へと上る道すらなくなり、コンクリート塀と民家に覆われてしまった。お参りするには品川神社の裏から、墓の裏へ入り込む不自然な通路がある。
明治14年(1881)、自由党を結成して近代日本の政党の基礎を作り、暴漢に襲われながら「板垣死すとも 自由は死せず」と有名な言葉を残した自由民権運動のリーダーだった人物も、世代の波の中で、ひっそりと人知れずここに埋葬されている。

  • 願行寺の縛られ地蔵。地蔵さんを縛って病を治す

    願行寺の縛られ地蔵。地蔵さんを縛って病を治す

  • 路地の井戸。現役だ

    路地の井戸。現役だ

東海寺

東海寺

東海寺

寛永15年(1638)、三代将軍徳川家光が沢庵禅師のために建立した臨済宗大徳寺派寺院。境内には元禄5年(1692)に名工、椎名伊代守良寛によって作られた梵鐘がある。
広い寺域をもっていた寺は明治以降鉄道や道路建設などで分断され、寺の大山墓地はJR東海道本線・京浜東北線と山手線・新幹線・横須賀線が左右に走り抜ける狭い敷地の中にある。
大山墓地には山手通りのガードを抜け目黒側のJR沿いの細い路地に入る。入り口の角には、日本初の近代ガラス工場となった「寛永品川硝子製造所跡」の表示がある。
工場は戦後取り壊されたが、一部は愛知県犬山市の明治村に移設されている。

  • 東海寺鐘楼

    東海寺鐘楼

  • 沢庵和尚の墓

    沢庵和尚の墓

細い路地の先には、樹木に覆われた一画があり、ここが東海寺の大山墓地だ。
墓地には沢庵和尚をはじめ万葉研究などで知られる国学者・賀茂真淵(1697〜1769)や、貞享元年(1684)に太陰暦の基本となった日本人初の和暦を作った渋川春海の墓がある。また近年になっては明治5年(1872)、新橋〜横浜間の鉄道敷設にあたり、終始建設に精魂を傾けた中心人物であり、後に鉄道庁長官を務めた井上勝の墓もある。
明治43年(1910)に亡くなった井上は、生前から「墓地は東海道本線、山手線に挟まれた大山墓地」に葬るようにと望んでいたという。希望通り、いまは暇なく行き交う列車の音の中で喜んでいるにちがいない。ごく新しいところでは生前から墓石に名を刻んでいた歌手・島倉千代子もこの墓地に眠る。

  • 賀茂真淵の墓

    賀茂真淵の墓

  • 島倉千代子の墓

    島倉千代子の墓

  • 渋川春海の墓

    渋川春海の墓

  • 井上の墓のすぐ後を新幹線が疾走

    井上の墓のすぐ後を新幹線が疾走

  • 井上の墓は鉄道記念になっている

    井上の墓は
    鉄道記念に
    なっている

旧東海道、目黒川にかかる品川橋

旧東海道、目黒川にかかる品川橋

荏原神社と細川家墓所

北品川と南品川を分ける目黒川にかかる品川橋から国道よりに欄干が赤く塗られた橋があり、その右側が荏原神社だ。木々に囲まれた静かなこの神社は奈良時代に創建。平安時代には源頼義・義家が安倍一族を討つ際、この社に参詣し、品川の海に出て戦勝を祈願したと伝えられている。
これより国道15号線を渡ると、東海寺手前の大きなビルの横に、巨大な墓石の並ぶ墓地がある。ここは肥後・細川家の墓所だ。入り口は目黒川沿いにあるが、3年前の震災で墓石が倒れ見学はできない。

  • 荏原神社への橋

    荏原神社への橋

  • 荏原神社

    荏原神社

奥平家の墓所

奥平家の墓所

奥平家墓所

北細川家の墓所は見られないが、品川橋から少し川上で右岸の清光院にある奥平家の墓所は巨大な墓石が立ち並ぶ豪壮なもの。綺麗に整備された境内を抜けると、奥平家の墓石が並んでいる。圧倒される思いだ。

最後の土佐藩主、山内容堂の墓

最後の土佐藩主、山内容堂の墓

鈴ヶ森刑場跡

その他宿場界隈には由緒ある寺や坂本龍馬像、最後の土佐藩主・山内豊信(容堂)の墓、新撰組の定宿だった旅籠屋の跡など見所はたくさんある。
そして、立会川にかかる浜川橋(なみだ橋)を渡ると、もう宿場町の外だ。刑場へ向かう罪人との今生の別れともなるのが「なみだ橋」だった。

  • 鈴ヶ森へと引かれる咎人と家族の別れ、なみだ橋

    鈴ヶ森へと引かれる咎人と家族の別れ、なみだ橋

  • 鈴ヶ森刑場跡

    鈴ヶ森刑場跡

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東海道 品川宿
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取材:2014年9月

  • ※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。