秋の伊吹山と琵琶湖東岸(2)

彦根城天守。唐破風や入母屋破風を配し、重厚だが優美さも感じさせる 長浜を出たあとは、琵琶湖東岸沿いを走る県道2号線、通称「琵琶湖さざなみ街道」を南へと向かった。一昨日に通過した台風の影響だろうか、水量が多く、風が強いために湖面は大きく波立ち、水際が迫っているところでは水しぶきが防波堤を乗り越えて歩道や道路を濡らしていた。
彦根では、徳川四天王の一人であり、現在放送中のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場している井伊直政の子、直継らによって築城された「彦根城」を見学。彦根からはいったん湖岸を離れて、山沿いの国道307号線を南下しながら「西明寺」「金剛輪寺」「百済寺」の湖東三山を巡った。その後はふたたび琵琶湖方面へと車を走らせて、織田信長が築城した「安土城跡」や古くから商業都市として栄えた近江八幡へ。近江八幡の「新町通り」や「八幡堀」では往時を偲ばせる古い町並みを散策し、ロープウェイで登った八幡山からは広大な琵琶湖を一望にできた。

ドライブルート

米原−(国道21・365号線、伊吹山ドライブウェイなど)−伊吹山−関ヶ原−(国道365号線、県道509号線など)−長浜−(県道2号線など)−彦根−(国道306・307号線など)−湖東三山−(県道213・328・2号線など)−安土−(県道2号線など)−近江八幡−米原

全行程 約172km、今回 約95km

<赤いドライブルート付近のマーカーをクリックするとその項目にジャンプします>

  • サムネイル1
  • サムネイル2
  • サムネイル3
  • サムネイル4
  • サムネイル5
  • サムネイル6

彦根城

NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎をはじめとする井伊家の人々は、代々静岡県奥浜名湖地方の井伊谷をその本拠地としてきたが(『浜名湖周遊ドライブ(2)〜直虎ゆかりの井伊谷を訪ねる〜』参照)、徳川家康に仕えた井伊直政が関ヶ原の戦いにおいて武功を挙げると、敗れた西軍の将・石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)に北近江へと移ってきた。その後、直政は城を彦根山に移そうとするが病死し、その子・直継が父の遺志を受け継いで慶長8年(1603)に築城に着手。それからおよそ20年の歳月をかけて、元和8年(1622)に完成したのが「彦根城」だ。

  • 表門を入ってすぐ、急な坂道を登っていく

    表門を入ってすぐ、急な坂道を登っていく

  • 左右対称な外観が印象的な天秤櫓

    左右対称な外観が印象的な天秤櫓

表門から入り、急な坂道を登っていくと、まず現れるのが天秤櫓。その名は、中央の櫓門部分の両側に二重の多門櫓が連なっている左右対称な構造に由来する。長浜城の大手門を移築したものと伝わっている。
天秤櫓、さらにその奥の太鼓門及び続櫓をくぐると、その先が本丸跡となり、国宝彦根城天守が堂々たる姿でそびえていた。天守の完成は慶長12年(1607)ごろで、大津城(滋賀県大津市)から移築してきたものだといわれている。国宝天守は、姫路、松本、犬山、松江、そしてこの彦根の5つだけで、貴重な史跡である。内部は3階構造で、急な階段を登って3階部分の廻縁に出ると、眼下には彦根の街や琵琶湖を見渡すことができた。

  • 彦根城天守。唐破風や入母屋破風を配し、重厚だが優美さも感じさせる

    彦根城天守。唐破風や入母屋破風を配し、重厚だが優美さも感じさせる

  • 天守内の階段。かなり急で、手すりにつかまり、ゆっくり登る

    天守内の階段。かなり急で、手すりに
    つかまり、ゆっくり登る

  • 天守内部の様子

    天守内部の様子

  • 廻り縁に出て、琵琶湖を望む

    廻り縁に出て、琵琶湖を望む

表門を入ってすぐのところにある「彦根城博物館」は、かつてこの場所にあった表御殿を復元して博物館とした施設で、井伊家の代名詞ともいえる「赤備えの甲冑」をはじめ、刀剣などの武具、能面や能装束、茶道具、調度品、書や絵画といった井伊家代々に受け継がれてきた豊富なコレクションを展示。城郭とあわせてぜひ見学したい。
/観覧料 1,000円(彦根城・博物館・玄宮園のセット券。個別の券もあり)

  • 彦根城博物館

    彦根城博物館

  • 彦根のマスコット「ひこにゃん」の撮影会は毎日開催

    彦根のマスコット「ひこにゃん」の撮影会は毎日開催

西明寺

彦根の市街地から国道306、307号線を走り、湖東三山へと向かった。湖東三山とは、琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西山腹にある「西明寺」「金剛輪寺」「百済寺」の天台宗寺院の総称で、どの寺も開創から千数百年の歴史を有する古刹である。
もっとも北に位置する「西明寺」は、平安時代の承和元年(834)に仁明天皇の勅願により、三修上人が創建。平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修行道場として栄え、最盛期には17の諸堂、300の僧坊を有する大寺院だった。源頼朝が来寺して戦勝祈願をしたという言い伝えも残る。しかし、その栄華も戦国時代の織田信長の焼き討ちによって潰え、その後は江戸時代の延宝年間に天海大僧正らによって再興されて、現在に至っている。
境内の見どころは、やはり本堂、三重塔、二天門だろう。信長の焼き討ちを僧たちの機転によってからくも免れたそれぞれの建物は、鎌倉時代築の本堂と三重塔は国宝、室町時代築の二天門は重要文化財に指定。本堂内陣では、鎌倉時代の作である日光・月光菩薩像や十二神将像などのすばらしい仏像群を拝むことができた。本尊の薬師如来立像は秘仏のため非公開だが、運がいいことに訪れたときは彦根城築城410年祭で、御前立秘仏の虎薬師(薬師瑠璃光如来立像)が特別開帳されていた。寺の人の話では「虎に乗った薬師如来はとても珍しい」そうで、厨子の左右の扉にはこの仏像を寄進した井伊家の橘紋と井筒紋が入っていた。
/拝観料 600円

  • 江戸時代に造られた庭園「蓬莱庭」

    江戸時代に造られた庭園「蓬莱庭」

  • 庭に咲いていた「不断桜」は、春秋冬に開花する

    庭に咲いていた「不断桜」は、春秋冬に開花する

  • 参道から二天門を望む。木々は徐々に色づきはじめていた

    参道から二天門を望む。木々は徐々に色づきはじめていた

  • 二天門は、持国天、増長天によって護られる。仏像は室町期の正長2年(1429)の作

    二天門は、持国天、増長天によって護られる。
    仏像は室町期の正長2年(1429)の作

  • 国宝の本堂(左)と三重塔(右)。どちらも鎌倉時代の造営

    国宝の本堂(左)と三重塔(右)。どちらも鎌倉時代の造営

金剛輪寺

近江路随一といわれる明壽院庭園に建つ茶座敷「水雲閣」。江戸末期の建築

近江路随一といわれる明壽院庭園に建つ茶座敷「水雲閣」。江戸末期の建築

続いて訪れたのは、奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の勅願で行基によって開山されたと伝わる「金剛輪寺」だ。両側に地蔵がずらりと並ぶ急な石段の参道を登り、室町時代に建てられたという二天門をくぐると、正面に堂々たる本堂「大悲閣」が現れる。建物は弘安11年(1288)の造営で、鎌倉期和様建築の代表的なものとして国宝に指定。堂内には、本尊の秘仏聖観世音菩薩をはじめ、平安中期作の十一面観世音立像など11体の重文指定の仏像が安置されていた。秘仏の本尊は、行基が一刀三礼で彫り進めたところ、木肌から一筋の生血が流れ落ちたという伝説があり、後世に「生身の観音様」と呼ばれるようになった。
湖東三山はどの寺も紅葉の名所として有名だが、なかでも金剛輪寺の本堂周辺はすばらしく、そのあまりにも鮮やかな深紅色に「血染めのもみじ」との異名さえあるほど。紅葉のピークは11月中旬から下旬にかけてで、訪れた10月下旬ごろはまだ日の当たる樹上あたりがわずかに色づいている程度だった。
/拝観料 600円

  • 参道の両側にはあまたの地蔵が並んでいた

    参道の両側にはあまたの地蔵が並んでいた

  • 三重塔は南北朝時代に建立されたと伝わり、昭和に入って復元された

    三重塔は南北朝時代に建立されたと伝わり、昭和に入って復元された

  • 国宝の本堂。現在の建物は、鎌倉時代の弘安11年(1288)に建立

    国宝の本堂。現在の建物は、鎌倉時代の弘安11年(1288)に建立

百済寺(ひゃくさいじ)

喜見院(本坊)庭園。山上に登ると展望が開け、「天下遠望の名園」とも呼ばれる

喜見院(本坊)庭園。山上に登ると展望が開け、「天下遠望の名園」とも呼ばれる

湖東三山のうち、もっとも南に位置するのが「百済寺」。近江最古の寺院のひとつで、推古14年(606)、聖徳太子の御願によって渡来僧・恵慈が創建したと伝わる。その名は当時の先進国家「百済国」に由来し、かつての御堂は百済国の梵閣「龍雲寺」を模して建てられた。本尊は太子自らが杉の大木を彫ってつくったことから「植木観音」と名付けられ、幹の上半分が龍雲寺の本尊に供せられたという伝説も残っている。
時代が移り、比叡山に天台宗が開創されると、この寺も天台寺院となり、「湖東の小叡山」と称せられるほどに発展していった。最盛期には合計1,000もの僧坊があったというその繁栄ぶりは、戦国時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスによって「地上の天国一千坊」と表現された。しかし、三山のほかの寺院同様、織田信長の焼き討ちによって壊滅的な状態に。江戸時代に入って再興が進み、慶安3年(1650)に現在も残る本堂などが建立された。
参道脇にところどころ残る城郭を思わせるような重厚な石垣は、かつてそこにいくつもの僧坊があったことを今に伝えている。信長は、安土城大手通の石垣参道をつくるにあたって百済寺の参道を参考にし、さらにこの寺の石垣や石仏を安土へと運び出したといわれている。
そんな石にまつわる歴史上の因縁をたどるように、今回のドライブ旅も百済寺から安土へと向かうことにした。
/拝観料 600円

  • 仁王門。正面の大わらじに触れると、身体健康などのご利益があると伝わる

    仁王門。正面の大わらじに触れると、身体健康などの
    ご利益があると伝わる

  • 作家の五木寛之さんが絶賛した参道の風景。石段の上方には本堂が建っている

    作家の五木寛之さんが絶賛した参道の風景。
    石段の上方には本堂が建っている

  • かつての本堂は、信長の焼き討ちによって焼失。現本堂は江戸時代の慶安3年(1650)に建立された

    かつての本堂は、信長の焼き討ちによって焼失。
    現本堂は江戸時代の慶安3年(1650)に建立された

  • 清酒の起源は畿内4寺の僧坊酒にあり、そのひとつがここ百済寺(ほかは大和の「正暦寺」「興福寺」、河内の「金剛寺」)

    清酒の起源は畿内4寺の僧坊酒にあり、そのひとつがここ百済寺
    (ほかは大和の「正暦寺」「興福寺」、河内の「金剛寺」)

安土城跡

石段が真っすぐに延びる大手道

石段が真っすぐに延びる大手道

車を停め、受付を過ぎると、正面に幅広い石段の道がまっすぐ山上に向かって延びていた。「安土城」を象徴する大手道である。
安土城は天正4年(1576)、織田信長によって天下統一の拠点となるべく築城が開始され、3年後の天正7年(1579)には日本で初めての天守閣が完成。その壮大で絢爛豪華な様は人々を驚嘆させ、当時日本を訪れていた宣教師たちによって遠くヨーロッパまで伝えられた。しかしその後、本能寺の変によって信長が殺され、代わって城主となった明智光秀が羽柴秀吉との戦に敗れたのち、天守と本丸は焼失。現在は石垣、石段などの遺構が残るのみとなっている。
大手道は山腹まで約180mにわたって直線的に延び、その両側には伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家邸跡などの屋敷跡が並んでいた。山腹部分はジグザグに屈曲しながら道が続き、さらに登っていくと信長公本廟、本丸跡などを経て、天守跡へと至る。
天守跡は石垣に囲まれた一辺約28m四方の台地で、天守を支えたであろう礎石が整然と並んで残っていた。記録によれば、安土城の天守は5層7階(地上6階・地下1階)、33mもの高さがあり、当時としては傑出した高層の大建築であった。その後、全国各地で高層の天守が次々と建造されていくが、その原点が安土城の天守だったという。
/入山料 700円

  • 大手道の石段には、石仏が使われている箇所がいくつもあった

    大手道の石段には、石仏が使われている箇所がいくつもあった

  • 大手道の途中で振り返る

    大手道の途中で振り返る

  • 複数の郭(くるわ)を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡

    複数の郭(くるわ)を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡

  • 信長の近習だった森蘭丸の邸宅跡もあった

    信長の近習だった森蘭丸の邸宅跡もあった

  • 信長公本廟

    信長公本廟

  • 天守跡。かつて天守を支えた礎石が整然と並ぶ

    天守跡。かつて天守を支えた礎石が整然と並ぶ

  • 天守台からの眺め。現在は干拓によって陸地になっているが、かつては琵琶湖の内湖に囲まれ、大手通のある南方のみが開けていた

    天守台からの眺め。現在は干拓によって陸地になっているが、かつては
    琵琶湖の内湖に囲まれ、大手通のある南方のみが開けていた

新町通りと八幡堀

古い屋敷が今も数多く残る新町通り

古い屋敷が今も数多く残る新町通り

安土城跡から県道2号線を5kmほど走り、中村町交差点で右折すると近江八幡の小幡町通りへと入っていく。正面には、かつて豊臣秀次(秀吉の甥)が城を築いた八幡山を望むことができた。
近江八幡の歴史は、八幡山城の城下町としてはじまる。秀次は、碁盤の目のような町をつくり、そこに安土城下の商人を移住させて、楽市楽座などの商業推進策を実施。16世紀末に城が廃城となったあとも町の発展は続き、江戸時代には全国で活躍した近江商人たちの拠点都市のひとつとなる。
整然とした町並みのなかでも特に「新町通り」には、「旧伴家住宅」や「旧西川家住宅」など近江商人(八幡商人)の本宅の家々が立ち並び、往時の雰囲気を色濃く残している。また、城の防御と荷船の往来のために秀次によって築かれた「八幡堀」が、今も悠々と水をたたえていた。

  • 新町通りにある「歴史民俗資料館」には、近江八幡の商人が使用した道具類を展示。赤い壁はベンガラ(赤色顔料)による

    新町通りにある「歴史民俗資料館」には、近江八幡の商人が
    使用した道具類を展示。赤い壁はベンガラ(赤色顔料)による

  • 堀沿いを散策する。「石畳の小路」には町屋や蔵を改装した店舗が並ぶ

    堀沿いを散策する。「石畳の小路」には
    町屋や蔵を改装した店舗が並ぶ

  • 八幡堀。かつては運河として琵琶湖と城下町を結んだ。両側に石垣と古い建物が立ち並ぶ風情ある景色

    八幡堀。かつては運河として琵琶湖と城下町を結んだ。両側に石垣と古い建物が立ち並ぶ風情ある景色

  • 明治10年(1877)に八幡東学校として建築された「白雲館」。館内には観光案内所を併設

    明治10年(1877)に八幡東学校として建築された「白雲館」。館内には観光案内所を併設

近江八幡の町を散策中、せっかくだから近江牛を食べようと、ガイドマップを眺めながら地元の食事処へ。近江牛の歴史は古く、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めのとき、高山右近が蒲生氏郷と細川忠興に牛肉を振る舞ったといわれている。江戸時代には彦根藩で味噌漬けにされた養生薬として商品化されて、日本全国に知られるようになった。
また、おみやげの物色もして、近江八幡名物の「赤こんにゃく」や、当地発祥の老舗菓子店「たねや」で和菓子を買って帰ることにした。

  • 近江牛のあみ焼き

    近江牛のあみ焼き

  • 近江名物「赤こんにゃく」は、食用ベンガラ(酸化鉄)で赤く染めている。織田信長が「赤く染めろ」と命じたのが起源とか

    近江名物「赤こんにゃく」は、食用ベンガラ(酸化鉄)で赤く
    染めている。織田信長が「赤く染めろ」と命じたのが起源とか

  • たねやの「つぶら餅」は、粒餡を包んで焼き上げたお餅で、日牟禮八幡宮近くの店舗の限定商品。1個80円

    たねやの「つぶら餅」は、粒餡を包んで焼き上げたお餅で、
    日牟禮八幡宮近くの店舗の限定商品。1個80円

  • 店内の工房では、お客の目の前でつぶら餅を焼いていた。見た目はたこ焼きのよう

    店内の工房では、お客の目の前でつぶら餅を
    焼いていた。見た目はたこ焼きのよう

八幡山ロープウェイと八幡山城跡

かつて豊臣秀次が城を築いた八幡山へは「八幡山ロープウェイ」で登っていくことができる。ロープウェイから眼下を眺めると、通りが碁盤目状に並んで整然とした町並みをかたちづくっている様がよくわかった。
山頂駅からは急な階段を登っていく。道の脇のところどころに石垣が残り、かつてこの山に城があったことを教えてくれる。八幡山城の本丸跡には現在、秀次の菩提寺である「村雲御所瑞龍寺」が建つ。この寺はもともと京都にあったが、昭和に入ってから秀次ゆかりのこの地に移ってきたそうだ。
北の丸跡と西の丸跡は展望台になっており、北西に広がる琵琶湖やその先遠くに比叡山を望み、東方には安土城跡や伊吹山、そして眼下に広がる近江平野など、今回のドライブで走ってきたスポットを眺めることができた。
/ロープウェイ往復 880円

  • ロープウェイで八幡山に登る。上から見ると、整然とした町並みがよくわかる

    ロープウェイで八幡山に登る。上から見ると、整然とした町並みがよくわかる

  • 歩道の脇に今も残る石垣

    歩道の脇に今も残る石垣

  • 西の丸跡からは琵琶湖を一望に

    西の丸跡からは琵琶湖を一望に

ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

滋賀県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、滋賀県の営業所リストをご覧いただけます。

滋賀県観光情報
滋賀県の観光スポットや宿泊施設、グルメ、イベント情報などのほか、エリア別モデルコースも見られる。
近江八幡観光物産協会
八幡堀や安土城跡をはじめとする観光案内やモデルコース、特産品情報、まつり情報などを紹介している。

記事・写真:谷山宏典 取材:2017年11月

  • ※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。