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京都・平家の栄枯盛衰の舞台(1)

ドライブライン

八坂神社 『平家物語』の舞台を訪ねて幻の都であった神戸・福原から平家の本拠地の京都へと移動した。そこで平家一門の栄華の拠点・六波羅から白河上皇ゆかりの地、六勝寺跡周辺に平安末期、乱世に生きたヒロインたちの足跡を辿ってみた。
六波羅は、古くは鴨川の東岸、五条大路から七条大路一帯を指す地名。現在は東山区六原区一帯だ。六波羅とは、昔は葬送地鳥辺野への入り口と言われ、古くから信仰の場であったため、数多くの寺院や御堂が建てられていた。平家一門の邸宅があり、清盛もこの地で生まれた。
一方、白河上皇御所法住寺殿、御願寺である法勝寺など六ヵ寺が並んでいた六勝寺跡を訪ねた後は、市内に点在する平家ゆかりの地の他、清盛の娘・建礼門院が波乱の生涯を終えた大原寂光院まで足を延ばした。


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<コース>
京都市内
京都は碁盤の目のように整備された分かりやすい道といわれているが、主要幹線道路以外は道幅が狭く一方通行も多いため注意を。



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●三十三間堂

三間堂本堂正面。この裏が通し矢場になる
三間堂本堂正面。この裏が通し矢場になる

長寛2年(1164)後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じ、離宮「蓮華王院本堂」、現在の三十三間堂を完成させた(寺の資料では建立したのは清盛とあるが、岩波文庫の『平家物語』には清盛の父忠盛とある)。創建当時は五重塔などを持つ本格的な寺院であったが、約80年後に火災で焼失、文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と、4度の大修理により700余年を経た歴史を持つ。それが現在の三十三間堂である。
御堂は入母屋・本瓦葺きの総檜造りで、地上16m、奥行き22m、南北に約120mと壮大な建物だ。御堂内陣の柱間が33あることから「三十三間堂」と通称されている。堂内には中央の中尊(国宝)を中心に左右に500体、合計1001体の「十一面千手千眼観世音」(重要文化財)が並ぶ。その他、自然への畏れや感謝の心を創造した力強く躍動的な風神と雷神や、四方に位置する28体の仏像など国宝の名品が祀られている。境内には秀吉ゆかりの「太閤塀」と呼ばれる築地塀がある。

蓮華王院南大門(重文)
蓮華王院南大門(重文)
南大門と太閤塀(重文)
南大門と太閤塀(重文)
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○三十三間堂通し矢

120mの南北に長い御堂の縁を矢を射通すことを「通し矢」という。保元元年(1156)から慶長10年(1605)までの約450年にわたり、武士たちが弓矢の上達を祈願して行われた行事。
その後、慶長11年(1606)尾州の浅岡平兵衛が100射中51本もの矢を120m先の的を射ったことが刺激となって、三十三間堂は「天下惣一」を争う競技場となった。
三十三間堂。この廊下で通し矢が行われた
三十三間堂。この廊下で通し矢が行われた

昭和62年(1987)、この通し矢に挑んだ射手数人が100射がけに9本の成功を果たした。
現在は毎年1月中旬に行われる縁日「楊枝のお加持」で弓道大会が催されている。
/拝観料 600円、TEL 075-561-0467

●法住寺

平安後期、約30年間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に建造した三十三間堂の前に建つ。優美であまりにも壮大な三十三間堂の建物からは、ここが上皇の御所が置かれたところとは気づき難いようで、通り過ぎて行く観光客も少なくない。かつては広大な寺領を誇った法住寺は上皇の御所と共に、自らの死後の御陵を造営したところでもある。
上皇と平家の栄華を象徴する寺であったが、寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢により火をかけられ焼失。その後、源頼朝によって再興された。明治時代に入って御陵と寺が分離されたが、寺に隣接して後白河天皇法住寺陵がある。
/拝観料 500円、TEL 075-561-4137

法住寺
法住寺
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法住寺殿址、旧御陵正門
法住寺殿址、旧御陵正門

後白河天皇法住寺陵正面
後白河天皇法住寺陵正面
後白河天皇法住寺陵
後白河天皇法住寺陵

●新熊野(いまくまの)神社

法住寺殿守護のため永暦元年(1160)、後白河上皇によって創建された。新熊野の新は「あたらしい」ではなく「あらたかな」という意味。
上皇は一生のうち熊野に34回も参詣されているが、当時の人にとって熊野詣では大変なこと。そこで、熊野の新宮・別宮として創建された。その後、応仁の乱(1467年から約10年間 )以降、度々の戦火に見舞われ焼失したが江戸時代初期に復元された。現在の本殿は寛文13年(1673)に修復されたもの。
境内には後白河上皇が植えられたという樹齢850年の樟(楠)がある。樹高19m、周囲6mもあり「大樟大権現」の別名がある。また神武天皇の東征の時、熊野から大和への道案内をしたと伝えられている三本足のヤタガラスが社紋となっている。その他、速玉社、若宮社、中西社など多数の末社が祀られている。
/TEL 075-561-4892
後白河上皇お手植えと伝えられる大樟(クスノキ)
後白河上皇お手植えと伝えられる
大樟(クスノキ)


後白河上皇の命で清盛が作った新熊野神社
後白河上皇の命で清盛が作った新熊野神社
熊野古道への入口
熊野古道への入口

●若一神社

清盛が別邸を造営。西八条殿と呼ばれた。仁安元年(1165年)、邸内の鎮守社として建立された。御神水は熱病にかかった清盛の熱を冷ますのに使われたと伝えられている。
この神社の一角だけ道が曲がっているが、清盛が植えたという樟(楠)は、西八条殿に火がかけられても焼け残ったり、道路工事で切り倒そうとした工事関係者に事故が続出したことから、道を曲げて楠周辺が保存されているという。
境内には清盛像もある。
/TEL 075-313-8928
清盛が植えた楠がそびえる
清盛が植えた楠がそびえる

若一神社、清盛の別邸があった
若一神社、清盛の別邸があった
清盛像
清盛像

清盛の愛妾・妓王の句
清盛の愛妾・妓王の句(萌えいずるも 枯るるも同じ
のべの草 何れか秋にあはではつべき)

清盛が使った水は神水となった
清盛が使った水は神水となった

●羅城門址

延暦13年(794)、長岡京から平安京へ遷都された折り、都市を南北に貫いた朱雀大路の北端には朱雀門、南端には羅城門が造られた。
都の正門ともいわれ、創建当時は羅城門を挟み、東に東寺、西に西寺が建てられた。現在は東寺だけが残り、日本一の高さを誇る五重塔や金堂はすべて国宝である。
今昔物語を原典として能や小説・映画などになり、「羅生門」で有名だ。しかし、今は児童公園の中に羅城門址と一柱の石碑に示されているだけだ。
羅城門址
羅城門址

●豊国神社・方広寺

平家物語から時代が下り、ここは豊臣秀吉を祀る神社である。平家のゆかりの地を北へ向かう途中であったが、そこは京都、興味深い神社仏閣も多く、幾度となく寄り道した。その一つ、隣接する方広寺は徳川家康を怒らせた「国家安康」「君臣豊楽」の文字の入った大鐘がある。
秀吉が建立した鐘は高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7トンという巨大なもの。この表面に書かれた文字が豊臣家の滅亡を招いたとされている。家康が文句をつけるにはあまりにも小さな文字で、今は白く囲まれて分かりやすくなっている。
/宝物殿のみ 300円、TEL 075-561-3802

豊国神社(方広寺)
豊国神社(方広寺)
豊国神社の大釣鐘
豊国神社の大釣鐘

京都国立博物館
京都国立博物館
家康が因縁をつけた文字、君臣豊楽、国家安泰。あまりにも小さい
家康が因縁をつけた文字、
君臣豊楽、国家安泰。
あまりにも小さい


●養源院

浅井長政の追慕のため秀吉の側室淀君(長政の娘)が秀吉に願い文禄3年(1594)に創建された。間もなく焼失したが元和7年(1621)徳川秀忠夫人であり、長政の娘(お江)が伏見城の遺構を移して再建。
廊下の天井には、伏見城落城の際、自刀した武将たちの血のりのしみた廊下の板を使用したという。そのため「血天井」として知られている。
俵屋宗達作のふすま絵と杉戸絵は重要文化財。境内にはお江の墓石もある。
/拝観料 500円、TEL 075-561-3887
養源院の看板
養源院の看板

養源院(血染めの天井、お江、お市の墓)
養源院(血染めの天井、お江、お市の墓)
お江(崇源院)の墓。養源院に5女が建立
お江(崇源院)の墓。
養源院に5女が建立


●六波羅密寺

平家一門の屋敷が軒を連ねた六波羅に、平安中期に踊り念仏で知られる空也(くうや)が疫病の蔓延を防ぐため、十一面観音を本尊とする道場を作ったのが由来。ここは清盛の墓所とも言われ、境内には「清盛塚」がある。当時、このあたりは葬送地であったことから寺が創建されたともいわれている。宝物館には国宝の木造十一面観音立像や重要文化財の木造平清盛像、空也上人像など鎌倉時代の運慶坐像などがある。
/入館料 600円、TEL 075-561-6980

六波羅密寺
六波羅密寺
清盛塚
清盛塚

●長楽寺

延暦24年(805)桓武天皇の勅令により伝教大師を開基として観世音菩薩を本尊として創建された。丸山公園の南東、長い石段が続く静かな山裾に、ひっそりと佇む寺。本堂には秘仏の観世音菩薩や阿弥陀三尊像、一遍上人像などが祀られている。とくに平清盛の娘徳子・建礼門院が、壇ノ浦の悲劇の後に、髪を下ろして仏門に入ったことでも知られるところ。
元暦2年(1185)3月、壇ノ浦において平家が敗れ、高倉天皇と徳子の間に生まれ、3歳で天皇に即位された安徳天皇(当時8歳)は、清盛夫人・時子に抱かれて入水、後を追った徳子は源氏軍に捕らわれ、この寺で出家し、間もなく大原の寂光院へ移る。寺には建礼門院に関わる貴重な資料の他、幕末の文人・頼山陽の墓や最後の将軍徳川慶喜の弟・明訓(あきくに)の墓とともに慶喜に仕え御所守衛に一身をささげ亡くなった水戸烈士戦没者87名の名を刻んだ「水戸藩留名之碑」などもある。
/拝観料 500円、TEL 075-561-0589

建礼門院が剃髪した長楽寺
建礼門院が剃髪した長楽寺
建礼門院の塔
建礼門院の塔

●八坂神社

長楽寺から祇園へと下ると鮮やかな朱塗りの神社へと出る。かつての社名は「祇園神社」で“祇園さん”の愛称で親しまれていた。慶応4年(1868)、神仏分離令で「八坂神社」と改められた。歴史は7世紀ごろまで遡るらしいが、創建も諸説がある。平安時代中期から一帯の産土神(土地を領有、また守る神)として信仰され、朝廷からも篤い崇敬を受けたという。
「祇園祭」の起源は、貞観11年(869)に各地で疫病が流行した際に神泉苑(現京都中京区にある寺)で行われた御霊会であり、その後、天禄元年(970)から元祇園神社である八坂神社の祭礼として今も毎年行われる。
この疫病を鎮めるため牛頭(ごず)天王を祀る神社を、清盛も信仰した。拝殿の東側には清盛の父・忠盛灯籠、祇園女御塔がある。この灯籠は『平家物語』の「祇園女御」に登場する。神社西楼門・本殿・石鳥居など、また美術工芸品など多く国の重要文化財に指定されている。
/TEL 075-561-6155

八坂神社
八坂神社
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忠盛灯籠
忠盛灯籠

●清水寺

世界遺産に登録されている清水寺は、京都東山の音羽山の夫婦区に建つ、その舞台からは京都の町が一望でき、その眺めは京都随一といわれている。
春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色を求めて大勢の観光客が訪れる。創建は宝亀9年(778)に延鎮上人により開山された。元は「北観音寺」と呼ばれていたが、境内に湧き出る清水が黄金延水として神聖化され「清水寺」と改めた。
本堂の「清水の舞台」は幅18m、奥行き10m、崖下からの高さ13m、床には木曽・天竜産の檜板が張られ、本尊の千手観音像に舞楽・芸能が奉納されるところ。国宝。他に仁王門、三重塔など重要文化財に指定されている。
/拝観料 300円、TEL 075-551-1234
清水寺の舞台
清水寺の舞台
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清水への坂道から
清水への坂道から
清水寺は賑やか
清水寺は賑やか

豆腐料理屋で一休み
豆腐料理屋で一休み
豆腐料理は名物
豆腐料理は名物



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音羽山 清水寺
清水寺境内の案内をはじめ、縁起、主な行司などのほか「よだん堂」という読み物も掲載されている。

取材:2012年3月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。