播磨・但馬・丹波〜兵庫周遊の旅〜(3)

大江町は福知山市の北端に位置し、さらに北へと30分ほど車を走らせれば、日本三景のひとつ「天橋立」(宮津市)にも行けてしまう。とはいえ、これから兵庫の篠山市、加東市、小野市などをまわりながら、姫路まで戻る予定であったため、北への誘惑にうしろ髪を引かれながら、往路を引き返した。福知山市街では、戦国時代に明智光秀が築いた「福知山城」を探訪。2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は明智光秀が主役であり、今後福知山城も関連スポットとして話題になっていくのだろう。
福知山ICから舞鶴若狭自動車道に入り、ふたたび兵庫県内へ。丹南篠山口ICで高速道路を下り、「篠山城大書院」や「旧商家町と旧武家町の町並み」を訪ねたあとは、姫路方面に向かってドライブしながら、丹波焼の産地である今田町の「立杭 陶の郷」(篠山市)、国宝の浄土堂や阿弥陀如来像を拝観できる「浄土寺」(小野市)、「竹中半兵衛の墓」(三木市)などを巡った。

ドライブルート

姫路市中心部−書写山−(県道67号線、中国自動車道など)−福崎町−(播但連絡有料道路、国道312・429号線など)−朝来市生野町−(国道312・429号線)−神子畑−(国道429・312号線)−竹田−(国道312号線、県道136・276・275号線など)−山東町粟鹿−(国道9・175号線、府道9号線)−福知山市大江町−(府道9・55号線)−福知山市中心部−(国道9号線、舞鶴若狭自動車道、県道306号線など)−篠山市中心部−(国道372号線、県道292・311・313号線など)−加東市−(県道144・75号線など)−小野市−(県道353・510号線など)−三木市−(県道20号線、国道2号線など)−姫路市中心部

全行程約315km、今回行程約167km

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福知山城

「福知山城」は、天正7年(1579)頃、丹波を平定した明智光秀が西国攻略のための拠点のひとつとして築城。光秀は、それまで横山城と呼ばれていた簡素な城郭を拡充し、城下町の整備にも着手した。光秀の死後は戦乱の時代にあって城主がめまぐるしく交代し、江戸前期の17世紀半ばに朽木稙昌が城主となると以後は明治時代まで朽木家が代々城主を務めた。明治6年(1873)の廃城令によって大部分の建物は取り壊されてしまったが、昭和61年(1986)に市民の瓦一枚運動などによって天守が復元。現在は郷土資料館として利用され、福知山城や城下町の歴史などに関する資料を展示している。
/入館料320円

  • 駐車場から見上げる福知山城

  • 坂を登り、天守をめざす

  • 福知山城の天守。内部は郷土資料館として公開されている

  • 城跡からの眺め

  • 天守前の「豊磐井(とよいわのい)」。
    50メートルもの深さがあり、当時の井戸掘り技術の高さがわかる

  • 天守台の石垣。
    五輪塔や宝篋印塔が転用石として使われているのが特徴

篠山城大書院

堅牢な石垣で区切られた城内道を行く

舞鶴若狭自動車道・丹南篠山口ICを出て、県道306号線を東へ。北交差点で左折して県道49号線をしばらく走ると、道路の左側に水をたたえた大きな堀が見えてくる。そこが「篠山城跡」であった。 この地に城が築かれたのは、慶長14年(1609)のこと。徳川家康の号令のもと、築城の名手・藤堂高虎が縄張奉行、姫路城主・池田輝政が普請総奉行として指揮を執り、西日本の諸大名に夫役を命じて築城工事は進められた。いわゆる天下普請である。今、篠山に来てみると「四方を山に囲まれた盆地に、なぜ天下普請で大規模な城郭を作ったのか」と不思議に思うが、篠山は古来、京都と山陰、山陽を結ぶ交通の要衝として栄えてきた歴史があり、家康としては大坂城を包囲し、豊臣家ゆかりの西国大名を抑える拠点にしようという狙いがあったのだ。そのことは初代城主に家康の実子である松平康重が就いたことや、その後代々譜代の有力大名によって統治されたことからもうかがえる。

内堀をわたり、堅牢な石垣が両側にそびえる城内道を進んでいくと、正面に「大書院」が現れる。大書院は、慶長14年の築城とほぼ同時期に建てられて、約260年間にわたって藩の公式行事などに使用されてきた。明治の廃城令後も城内建物の中で唯一残されて、学校や公会堂として利用されてきたが、昭和19年(1944)火災によって焼失。その後、平成12年(2000)に現在の建物が復元再建された。 大書院は一大名の書院としては破格の規模を誇り、建物内には8つの部屋とそれを取り囲む広縁が設けられている。中でも上段の間は、幅3.5間(6.9メートル)の大床、付書院、帳台構などを備え、格式の高さが伝わってきた。また、大書院の南側には、二の丸御殿跡や本丸跡、天守台などの遺構が残っていた。 城郭の敷地は一辺約400メートルの正方形で、大書院などがある中心部は内堀と外堀の二重の堀でぐるりと取り囲まれている。整然とした縄張で構成された美しい城跡であった。
/入館料400円

  • 大書院の入口。入って正面は史料館で、
    篠山城模型やパネル、書状などの史料を展示している

  • 篠山城の模型。正方形の縄張、二重の堀、
    出入口であった3つの馬出しなどの様子がよくわかる

  • 手前が次之間、奥が上段之間。
    大書院の中でもっとも格式の高い部屋

  • 二の丸御殿跡(手前)と大書院

  • 天守台の石垣。城の完成を急いだため、
    実際には天守は築かれず、代わりに天守台南東に一重の隅櫓が建てられた

  • 埋門の石垣に残る「三佐之内」の刻印。
    普請総奉行を務めた池田三左衛門輝政の名を印したものといわれる

  • 城内に鎮座する青山神社。
    名君の誉れ高い青山家10代の忠俊や、篠山城主であった18代忠裕を祀る

旧商家町と旧武家町の町並み

「能楽資料館」。
面、装束、楽器など能や狂言に関する資料を展示する

篠山城跡の周辺には、かつての商家町や武家町の町割が今も色濃く残っている。
城下町の南東に位置する「河原町妻入商家群」は旧商家町。東西約500メートルの通りに沿って、江戸末期から昭和初期の伝統的な町屋や土蔵が数多く軒を連ねていた。町屋の7割以上が妻入(建物の妻側に出入口を設けた家屋)で、そのことが特徴的な景観を作り出している。通り沿いには「能楽資料館」(入館料500円)や「丹波古陶館」(入館料500円)などの立ち寄りスポットもあった。

  • 河原町妻入商家群の町並み

  • 丹波焼の器などを販売する店もあった

篠山城を取り囲む西新町、南新町、東新町は旧武家町で、中でも西新町の「御徒士町武家屋敷群」には江戸期に建てられた茅葺の武家屋敷と土塀が建ち並んでおり、往時の面影を今に伝えてくれる。その一角にある「武家屋敷安間家史料館」(入館料200円)は、もとは篠山藩の徒士武士・安間家の屋敷で、現在は史料館として古文書や日常使いの食器などを展示していた。

ほかにも、篠山城の北側、外堀のすぐそばの「青山歴史村」(入館料300円)は、篠山藩主青山家の明治時代の別邸を中心に長屋門と3棟の土蔵からなり、青山家ゆかりの品々や藩校の蔵書、漢学書関係の版木などの史料を展示。明治24年(1891)建築の日本最古級の木造裁判所の建物を再利用した「歴史美術館」(入館料300円)では、古代から中世、近世にかけての武具や陶磁器などの美術品を鑑賞することができる。

  • 「武家屋敷安間家史料館」。
    茅葺屋根の主屋と土塀が特徴

  • 「青山歴史村」の入口。
    この茅葺の長屋門は、旧篠山藩士・澤井家にあったものを移築した

  • 全国的にも珍しい、鼠草紙絵巻

  • 藩士の教育に使用した漢学書の版木

  • 青山家ゆかりの武具や装束

  • 青山歴史村内に併設された「丹波篠山デカンショ館」。
    デカンショ節は、篠山の歴史と文化を歌った民謡

立杭 陶の郷

国道372号線の上小野原交差点を左折し、県道292号線を南へと向かうと、やがて道路脇に「英一窯」「末晴窯」「丹水窯」など窯元の看板が目立つようになる。南北に四斗谷川が流れ、緑の丘や田園が広がる今田町立杭一帯は、日本六古窯のひとつ「丹波焼」の産地であり、今も50以上の窯元が密集しているのだ。

  • 道沿いに丹波焼の窯元が並ぶ。あたり一帯にはのどかな田園風景が広がっていた

丹波焼の歴史は平安時代末期から鎌倉時代初期にはじまったと伝わる。桃山時代までは「穴窯」が使用されていたが、17世紀のはじめごろに丹波焼特有の半地上の「登り窯」が導入され、また同時期に取り入れられた蹴りロクロによって発展を遂げた。シンプルで穏やかな見た目、典型的なこげ茶や黒の光沢による渋さが特徴で、江戸時代中期以降には茶陶として珍重されてきた。
立ち寄ったのは上立杭地区にある「立杭 陶の郷」で、敷地内にはショップ、ギャラリー、陶芸教室、レストランなどが揃う。丹波焼のショップ「窯元横丁」ではすべての窯元の作品が展示・販売されているので、じっくりと見て回って自分好みの器を探すことができる。また、「伝産会館」では、鎌倉〜江戸時代の古丹波の名品や、現代作家の最新作を鑑賞したり、丹波焼の歴史について学ぶこともできる。
時間に余裕があれば、一帯に点在する窯元を直に訪ねてみたり、「最古の登り窯」や「陶器神社」などを巡ってみるのもおすすめだ。
/入園料200円

  • 「立杭 陶の郷」の外観

  • 窯元横丁。50以上の窯元の作品が、
    横丁風に区切られたスペースに並ぶ

  • それぞれの窯元ごとに異なる個性的な焼物たち

  • 窯元横丁内のギャラリースペース

  • 丹波といえば、やはり黒豆!
    レストラン脇のおみやげスペースにて

  • 立杭地区に現存する最古の登り窯。
    明治28年(1895)構築。長さは47メートルもある

  • おみの木。国内最大のアベマキの巨木で、地域の神木として大切にされてきた

  • 時間に余裕があれば、窯元を直に訪ねてみるのもいいだろう

朝光寺

篠山市をあとにして、次に向かったのは加東市の古刹「朝光寺」。寺の創建は、飛鳥時代の白雉2年(651)、インドから渡ってきた法道仙人によると伝わる。もとは裏の権現山の山頂にあったが、平安末期の文治5年(1189)に現在地に移ってきた。
鹿野川沿いの斜面に設えられた急な石段を登って境内に入ると、正面に建つのが堂々たる構えの本堂。室町初期の応永年間の建築と考えられており、和様を基調としながらも随所に唐様も取り入れた中世折衷様式の密教寺院の貴重な遺構として、国宝に指定されている。境内にはほかに、重要文化財指定の鐘楼や、多宝塔などが建っていた。

  • 境内へ至る石段。上に見えるのは仁王門

  • 国宝の本堂。堂々たる構え

  • 本堂の内部

  • 多宝塔。県指定の文化財

  • 境内にひっそりと佇んでいた石仏

  • 参道沿いを流れる鹿野川にかかる「つくばねの滝」

浄土寺

兵庫県を代表する仏教建築として、もうひとつ訪れておきたい場所があった。それが小野市の「浄土寺」だ。創建は鎌倉時代の建久年間で、奈良の東大寺を再建した重源上人によってなされた。東の丘陵からのびてくる尾根の先端地に位置し、境内から見れば西側が大きく開けて、夕方になると美しい夕日を望むことができ、仏が住むといわれた西方浄土を実感できるように工夫がなされている。
境内にはいくつもの堂宇が建つが、中でもいちばんの見どころはやはり国宝の浄土堂だろう。このお堂は、重源上人が入宋して学んだ天竺様という建築技法を用いており、天井を張らない化粧屋根裏、太い円柱に差し込まれた肘木、それにかかる虹梁などにその特徴がうかがえる。東大寺南大門とともに天竺様を伝える貴重な建物で、お堂としては唯一のものである。
堂内に安置されるのは、名仏師・快慶によって作られた阿弥陀如来および両脇侍立像。晴れた日には、背後の蔀戸から射し込む西日が床に落ち、その反射を背景にして、西方浄土から来迎するような阿弥陀三尊像の姿を拝むことができるという。

  • 浄土堂。鎌倉時代初期の建久5年(1194)に上棟された。
    日本唯一の天竺様のお堂

  • 本堂である薬師堂。建久8年(1197)に上棟されるが、その後焼失。
    現在の建物は永正14年(1517)に再建されたもの

  • 浄土堂内部。快慶作の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊立像が安置される(画像提供「極楽山浄土寺歓喜院」)

竹中半兵衛の墓と秀吉本陣跡

兵庫を巡る旅の最後に立ち寄ったのは、三木市の中心部から北へ3キロほど、田園地帯のはずれにひっそりとあった「竹中半兵衛の墓」だ。
竹中半兵衛は戦国時代に活躍した軍略兵法家であり、美濃の斎藤氏に仕えたのち、織田信長に従って羽柴秀吉とともに各地を転戦し、秀吉の中国攻めにも同行した。ところが、三木城攻防戦の最中に胸を病んで一時帰京。その後、こう着した戦況を心配してこの地に戻ったものの、天正7年(1579)6月に36歳の若さで亡くなった。その亡骸を葬ったと伝わるのが、この墓である。

  • 竹中半兵衛の墓

また、墓のすぐ裏手の山は、秀吉が三木城攻めの際に本陣を敷いたといわれる場所で、山道を登っていくと、兵士を駐屯させた段状の平坦地群や、土塁で囲まれた主郭などの曲輪の痕跡を見ることができた。

  • 秀吉本陣跡の主郭。まわりは土塁で囲まれている

  • 主郭からの眺め

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記事・写真:谷山宏典 取材:2018年9月

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