播磨・但馬・丹波〜兵庫周遊の旅〜(1)

これまで日本各地でさまざまな城郭・城跡を巡ってきたが、兵庫県にぜひ訪れたい城が2つあった。ひとつは、平成5年(1993)に日本初の世界文化遺産に登録された国宝「姫路城」。5年半にわたる平成の保存修理を平成27年(2015)に終えて、白く優美な姿をよみがえらせた日本屈指の名城をこの目で見ておきたいと思ったのだ。もうひとつは、山の頂に堅牢な石垣群が広範囲に残る景観から"天空の城" "日本のマチュピチュ"とも呼ばれる「竹田城跡」。テレビや雑誌などでもたびたび取り上げられる人気の城跡である。
ドライブコースは、姫路市中心部の「姫路城」をまず訪れて、その後「竹田城跡」を目指して、播磨・但馬エリアを南北に貫く国道312号線や播但連絡有料道路を北上。その途上で、"西の比叡山"ともいわれる古刹「圓教寺」や、昨年(平成29年/2007)日本遺産に認定された『播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道』を構成する「生野銀山」「神子畑選鉱場跡」「神子畑鋳鉄橋」などにも立ち寄ることにした。

ドライブルート

姫路市中心部−書写山−(県道67号線、中国自動車道など)−福崎町−(播但連絡有料道路、国道312・429号線など)−朝来市生野町−(国道312・429号線)−神子畑−(国道429・312号線)−竹田−(国道312号線、県道136・276・275号線など)−山東町粟鹿−(国道9・175号線、府道9号線)−福知山市大江町−(府道9・55号線)−福知山市中心部−(国道9号線、舞鶴若狭自動車道、県道306号線など)−篠山市中心部−(国道372号線、県道141・311・313号線など)−加東市−(県道144・75号線など)−小野市−(県道353・510号線など)−三木市−(県道20号線、国道2号線など)−姫路市中心部

全行程約315km、今回行程約97km

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姫路城

ニッポンレンタカー姫路営業所」で車を借りて、最初に訪れたのはJR姫路駅から北へ1キロメートルほどのところにある「姫路城」だ。
大手門をくぐり、かつて三の丸御殿があった広場へと入っていくと、早速、複数の小天守を従えた大天守の雄姿を望むことができた。青空を背に天を衝くようにそびえるその白き天守は華麗で美しく、一目見ただけで魅了されてしまった。

  • 大手門を入ると、いきなり正面に大天守が!

この地にはじめて城が築かれたのは、南北朝時代の貞和2年(1346)と言われている。戦国時代には小寺氏の重臣、黒田重隆・職隆父子が城主を務め、のちに豊臣秀吉の軍師となる黒田孝高(官兵衛)も姫路城で生まれている。播磨国を平定した羽柴(豊臣)秀吉が城主を務めていた時期もあり、この秀吉時代に三重天守をもつ石垣作りの城郭や城下町が整備された。
現在見られるような壮大な城郭が造られたのは、関ヶ原合戦後のこと。まず関ヶ原の武功で播磨52万石の大大名となった池田輝政が五重天守や高石垣を築くなどして大改修を行い、次いで城主となった本田忠政が西の丸増築や三の丸御殿の整備などを進めて、城郭が完成した。その後、城主は松平氏、榊原氏、酒井氏など親藩や譜代の大名が歴任し、明治時代を迎えることとなる。

壮麗な外見とは裏腹に、姫路城が江戸初期に建てられた軍事色の強い城郭であることは、城内を歩いているとよくわかる。
表玄関である「菱の門」から入ると、塀や石垣によって区切られた城内道がまるで迷路のように入り組みながら続き、その途中には鉄扉の頑丈な門や抜け穴のような小さな門などいくつもの門が天守への行く手を阻むように建つ。また天守内には、武具掛けや武者隠し、石落とし、火縄銃の硝煙を排出するための高窓(煙出し)など、籠城戦を意識した仕掛けが随所に設えられていた。城壁や天守が白漆喰で塗り固められているのも、見た目のためというより、火縄銃の射撃によって延焼しないように採用された手法だという。
城としての風格もあり、規模も大きく、当時の姿を今に伝える多様な遺構の保存状態も良好。まさに国宝や世界文化遺産にふさわしい城郭であった。
/入城料1,000円

  • 三国堀の手前から眺めた天守群。ここから見る天守の姿も美しい

  • 城内道を行く。右側の土塀には、さまざまな形状の狭間が見られた

  • 城内道は複雑に屈曲し、防御機能を高めている。
    右の土塀は「油壁」と呼ばれ、型枠や壁土の様子がよくわかる

  • 東大柱。現在は一部補修されているが、
    もとは長さ24.8メートルの樅の一本柱で、
    各階を貫いて大天守を支えている

  • 大天守3階

  • 大天守4階。天井近くには、火縄銃の硝煙を排出するための高窓があった

  • 壁一面の武具掛け

  • 大天守の最上階(6階)の内部。
    多くの観光客でごった返していた

  • 大天守の最上階からの眺め。
    姫路の市街地が見渡せる

  • 有名な怪談話「播州皿屋敷」の舞台である
    「お菊井戸」

  • 本丸跡から見上げる天守群。スケールの大きさがよくわかる

書寫山圓教寺

姫路城を出たあと向かったのは、姫路市の北西に位置する書写山の山上に広大な伽藍を有する書寫山圓教寺しょしゃざんえんぎょうじ。山麓に車を停め、ロープウェイで山上へと登っていった。

  • 書写山ロープウェイで山上駅へ

圓教寺は平安時代の康保3年(966)、性空上人による開かれた。はじめは草庵を結び、修行の日々を送っていたが、やがて上人の徳と名声が都にも響くようになり、数々の堂塔が整えられていった。
その中心となったのが、ロープウェイ山上駅から30分ほど歩いたところにある「三之堂みつのどう」だ。三之堂とは「大講堂」「食堂(じきどう)」「常行堂」という3つの巨大な堂宇の総称で、広場を囲むように建物がコの字型に配置されている独特な空間構成が特徴的。
大講堂は圓教寺の本堂であり、寛和2年(986)に花山法皇の勅願によって創建された。本尊の釈迦三尊像が安置され、お経の講義や論議が行われた僧侶の学問と修行の場である。現存する建物は室町中期に再建されたものだ。食堂は修行僧の寝食のための寮で、後白河法皇の勅願により創建。現在の建物は室町時代のものと推定され、桁行約40メートルという長さは現存する総2階建ての仏堂建築としては国内最大規模を誇る。常行堂は僧侶が常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行)を行うための道場で、現存の建物はほかの二堂と同じく室町時代のものだと伝わる。
三之堂のさらに奥には杉木立の間にひっそりと「奥之院」が広がり、性空上人を祀った「開山堂」や、上人に使えた乙天護法童子と若天護法童子を祀った「護法堂」などが建つ。境内にはほかにも、岩山の中腹に建つ「摩尼殿」やさまざまな塔頭、若いころに圓教寺で修行したという武蔵坊弁慶にまつわる史跡など見どころが点在しているので、時間をかけてのんびりと散策するのがいいだろう。

  • 東坂を登り、仁王門を目指す。路傍にはいくつもの仏像が立つ

  • 圓教寺の正門である仁王門。これより中は聖域とされる

  • 階段を登った先、左上に見えるのが摩尼殿

  • 摩尼殿の廊下からの眺め。
    現在の建物は昭和8年(1933)に再建されたもの

  • 境内には数多くの巨木が立つが、中でも「千年杉」と呼ばれる
    この杉の大木は樹齢700〜800年ほどでひときわ大きい

  • 右から大講堂、食堂、常行堂。
    3つのお堂がコの字型に配置された独特な伽藍

  • 姫路城主だった本多家の墓所。
    忠政の父で、徳川四天王の一人だった本多忠勝の墓もある

  • 弁慶が自らの姿を写したと伝わる「弁慶の鏡井戸」。
    弁慶は7歳から10年間、圓教寺で修行したといわれる

  • 奥之院。左奥が「開山堂」、右手前の2つのお堂が「護法堂」

柳田國男生家

播但連絡有料道路を福崎北ランプで下りて、5分ほど走ると「柳田國男生家」へと着く。
柳田國男は「日本民俗学の父」と称される人物で、著作として『遠野物語』が有名。明治8年(1875)に神東郡田原村辻川(現在の神崎郡福崎町辻川)で生まれ、この家で10年間を過ごした。『故郷七十年』という本の中で「この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよい」と書いているように、彼の民俗学研究の原点といえる場所である。建物は、一時期別の人の所有となっていたが、昭和47年(1972)に現在地に移築・復元されて今に至っている。
生家の隣には「柳田國男・松岡家記念館」が建つほか、南側の辻川山公園には河童や天狗など日本古来の妖怪の像が立ち、子供たちの遊び場となっていた。

  • 柳田國男生家の外観

  • 生家の内部は、4畳半2間と3畳2間の整形四ツ間取り。
    江戸時代中期(18世紀中頃)の建築と推定される

  • 池のほとりの河童の河太郎(がたろう)。
    柳田國男の『故郷七十年』に出てくる駒ヶ岩の河童ガタロがモチーフ

  • 定時になると小屋から飛び出す逆さ天狗に、子供たちは大興奮

朝来市旧生野鉱山職員宿舎と志村喬記念館

播但連絡有料道路を北へとひた走り、神崎北ランプで有料道路を出たあとは、国道312号線をさらに北上。朝来市生野町で国道429号線に入り、進路を東へと変えて「生野銀山」を目指した。その途上、道路沿いにあった「朝来市旧生野鉱山職員宿舎」にも立ち寄ってみることにした。
生野町はかつて「佐渡の金、生野の銀」といわれたほどに鉱業が盛んだった地域で、明治期の近代化の流れの中で鉱山、工場、鉱石輸送路、水路、職員住宅などが一体的に開発されていった。現在、旧生野鉱山職員宿舎として公開されている区画とその周辺は、明治9年(1876)に生野鉱山に赴任した上級官吏・技術者のための官舎が建設された場所で、敷地内に残る4棟のうち3棟(甲7号、8号、9号)はその当時に建てられた貴重な遺構である。ほかの1棟(甲19号)は、その後明治後半になって建てられたものだ。それぞれの建物の内部は、明治、大正、昭和初期のそれぞれの時代に合わせて修復・復元工事が施され、各建物を通して見ることで日本人の生活様式の変遷も知ることができる。

  • 国道429号線沿いに瓦葺の塀が続く

  • 手前が甲7号宿舎。奥に甲8号、9号が続く

  • 甲7号宿舎の台所。大正時代の居住様式を再現している

また、敷地内にかつてあった甲11号住宅は、昭和の名優・志村喬の生家であり(父親が生野鉱山の冶金技師だった)、建物は現在残っていないが、玄関のそばにあった松の木と生家跡を示す標柱が立っていた。甲7号住宅の内部は「志村喬記念館」となっており、生野で暮らしていた子供の頃の写真や出演映画に関するパネルや資料、遺品などの展示を行っていた。
/入場無料

  • 昭和の名優・志村喬は、明治38年(1905)に
    生野町に生まれ、少年時代を生野鉱山の社宅で過ごした

  • 甲7号宿舎は、現在「志村喬記念館」となっている

生野銀山

観光坑道の入口。フランス式の石組で築造されたアーチ型の坑口にも
明治時代の面影が残る。左の階段を登ると露天掘り跡へ至る

案内看板に導かれて市川に架かる橋を渡り、山あいへと入っていくと、やがて「生野銀山」に到着する。 同銀山の歴史は古く、発見は平安時代の大同2年(807)と伝わる。室町時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まり、江戸時代には「銀山奉行」や「生野代官」が置かれて幕府によって直接管理された。明治に入ると国内最初の官営鉱山となり、フランス人技師ジャン=フランソワ・コワニェの指導によって先進的な技術が導入されて近代化が押し進められた。明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移されて皇室財産に。明治29年(1986)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山としてさらなる開発が進められる。昭和48年(1973)の閉山までに掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上、深さは880メートルの深部にまで達し、70種類以上の鉱石が採掘された、まさに日本を代表する鉱山である。
観光坑道の内部では、人形やかつて使われていた機材などを用いて、江戸時代や近代の採掘の様子を再現。狭い地下空間に突如として現れるエレベーター巻揚機の巨大さは圧巻だった。また、人間一人が這ってやっと通れるぐらいの江戸時代の坑道は、当時の採掘の苛酷さを生々しく教えてくれた。
坑道入口横の階段を登っていった先には、江戸時代の露天掘りの跡や地下に潜るために手掘りで掘られた坑口がいくつも残されていた。
/入場料900円

  • 6江戸時代には、狭い穴を這うようにして 掘り進めながら採掘が行われた

  • 近代以降の採掘の様子を再現したエリア

  • 露天掘りの跡。室町時代から江戸末期にかけて採掘され、
    地下200メートルまで達している箇所もあるという

  • 江戸時代に手掘りで掘られた坑道の入口

  • 鉱山資料館では、生野銀山に関するさまざまな資料を展示。
    写真は、江戸時代の採掘の様子を再現した坑内模型。まるで蟻の巣のよう

  • 同じく資料館に展示されていた、天保年間(江戸時代)の坑道地図

神子畑鋳鉄橋

平成29年(2017)に播磨・但馬エリアの文化財で構成される『播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道』が文化庁の日本遺産に認定され、今回の旅で立ち寄った各所ではそれを記念する横断幕や幟、観光パンフレットなどをよく目にした。
銀の馬車道とは、明治初頭に政府によって整備された生野銀山と飾磨港(現・姫路港)を結ぶ南北約49キロの「生野鉱山寮馬車道」の愛称で、当時の技術の粋を集めた物流専用道路であるこの道は日本初の高速産業道路≠ニも言える。一方、鉱石の道は、生野、神子畑、明延という3つの鉱山を結んだ鉱石輸送の専用道路で、生野鉱山から銀の馬車道につながっていた。せっかくの機会なので、この日本遺産に関するスポットもいくつか巡ってみることにした。

生野から国道312号線を北へ向かい、朝来インター東交差点を左折。国道429号線を7キロほど走ると「神子畑鋳鉄橋」が見えてくる。
この橋は、明治時代、神子畑−生野間の鉱石運搬のために整備された馬車道の一部であり、日本に現存する鉄橋としては3番目に古く、全鋳鉄製の橋としては日本最古となる。一連アーチ型の洋式橋で、橋長は16メートル。神子畑−生野間にはこの橋のほかに4つの橋が架けられたが、すべてが鋳鉄製であったという。山深いこの地域に5つもの近代的な鋳鉄橋が建設されたことからも、明治政府がこの一帯の鉱山の開発に力を入れていたことがうかがえる。

  • 神子畑川に架かる鋳鉄橋。木橋や石橋がまだ主流だった明治初期においては最先端の橋だった

神子畑選鉱場跡

日本遺産認定を祝う横断幕

神子畑鋳鉄橋からさらに2キロほど山あいの道を走ると、山の斜面にまるで古代の宮殿か要塞かのように巨大なコンクリートの構造物がそびえ立つ場所へと着く。そこがかつて東洋一≠ニ謳われた「神子畑選鉱場跡」であった。
神子畑はもともと鉱山として開発された歴史を持つ。開山は平安時代と伝わり、15世紀ごろから採鉱が盛んに行われるようになった。最盛期は明治10年代から30年代で、生野鉱山の支山として銀の採鉱が活発に行われた。しかし、明治40年以降は鉱脈が減少。さらに明延鉱山で新たな錫鉱脈が発見されたため、神子畑は明延の鉱石を選鉱する選鉱場として再整備されることに。そうして大正8年(1919)に錫の選鉱場が完成。昭和9年(1934)には硫銅選鉱場も開設し、同15年(1940)の拡張工事を経て、東洋一といわれる選鉱施設へと発展していった。
最盛期には神子畑地区には1300人もの人々が生活をしていたというが、昭和62年(1987)の明延鉱山閉山に伴い、神子畑選鉱場も操業を停止。建物はその後も長く残っていたが、老朽化のために平成16年(2004)に取り壊された。現在は山の斜面に建てられていた選鉱場のコンクリート基部とシックナー(液体中に混じる固体粒子を分離する装置)の遺構のみが、かつての繁栄を今に伝えている。

  • 山の斜面に、選鉱場のコンクリート基部が段々状に残る。
    まるで古代文明の宮殿や要塞のような雰囲気

  • 液体中に混じる固体粒子を分離するシックナーの遺構

  • 在りし日の神子畑選鉱場。幅110メートル、
    高低差は75メートルもあり、東洋一の選鉱場と呼ばれた

  • 旧神子畑鉱山事務所。もとは生野鉱山の外国人宿舎として建てられ、
    明治20年(1872)にこの地に移築された。通称「ムーセ旧居」

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記事・写真:谷山宏典 取材:2018年8月