ニッポンレンタカーHOME > 旅のお役立ちガイド > ドライブガイド > 『平清盛』ゆかりの地・神戸(幻の都)

『平清盛』ゆかりの地・神戸(幻の都)

ドライブライン

経が島築造で神の怒りを鎮めるために築かれた七宮神社 時代考証に忠実にと、制作者側肝入りの演出といわれているが、さまざまな賛否両論を噴出しながらNHKの大河ドラマ『平清盛』がはじまった。乱世に生きた平清盛と、その一門の興亡を描いた『平家物語』は、鎌倉時代、琵琶法師たちによって語り広められた軍記物語で国民的叙事詩ともいわれている。動乱の平安末期に平氏の嫡男として生まれた清盛は、63年の歳月で日本初の武家政権を樹立する。
清盛が生まれたのは元永元年(1118)のこと。ドラマでは生みの親は祇園女御、実の父は白河法王として語られているが、史実は平忠盛の嫡男とも言われる。ドラマは物語である。現代の琵琶法師ともいえる、テレビの中の平家物語の一部を観ながら、遡ること800余年前、平氏一門の壮大なドラマの跡を訪ねてみよう。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
新幹線新神戸駅−(県道30号線)−三宮・生田神社−(県道21号線)−(国道28号線)−JR神戸線兵庫駅−和田岬−長田区周辺
行程 約30km


<赤いドライブルート付近のマーカーをクリックするとその項目にジャンプします>



●生田神社

神戸三宮にある御祭神稚日女尊、鳥居は大きな朱塗り。その左右には大海神社と松尾神社が鎮座、奥には朱の楼門、さらに奥には本殿がある。

堂々と1800年もの歴史を持つ神社。生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれたところでもある。生田とは元は活田といい、「活き活きとした力強い生命力あふれる地」の意味を持つ。清少納言の『枕の草子』にも「杜は生田」という記述があり、昔から日本を代表する森に鎮座する生田神社は、現在も活力の源(パワースポット)として、参拝者も多い。
生田神社には、平清盛の直接の逸話記録は残っていないが、清盛と神戸の繋がりは深い。宗との交易拡大を夢見て、大型船の寄港できる瀬戸内海の海の道を確保して大陸との結びつきを求めた清盛は境内に、神功皇后が新羅征伐の後、航海の無事を祈って大海神社を祀った。航海に生田神社は無視できない存在であっただろう。
生田神社。社殿裏に一の谷合戦の平家軍が布陣
生田神社。社殿裏に一の谷合戦の
平家軍が布陣


●幻の福原京

現在の神戸市兵庫区、ここにはもともと平家の別荘群があったところ。ここを福原といった。治承4年(1180)清盛晩年のこと、中央政界を掌握した清盛は、福原の外港・大輪田泊(現・和田岬周辺)に国際貿易港を造り、宋との交易拡大を夢見てこの地に新都を造営、平安京から遷都した。このとき大輪田に海上交易の拠点となる人工島を築造、これを「経ヶ島」という。現在は築かれた場所ははっきりとは分かっていない。

福原京には清盛の娘、徳子が生んだ安徳天皇・高倉上皇以下が大挙して移り住んだ。
しかし、時はすでに平家没落の兆しがはじまり、反平氏勢力に対抗する拠点としては、山が海に迫る地形では充分な土地もなく、僅か半年で天皇、上皇らが平安京へ戻り、清盛も福原を引き上げた。その翌年、清盛は病に倒れそのまま京都で64歳の生涯を閉じた。
たった半年の都だったとはいえ、福原(現・兵庫区)には清盛にまつわる史跡や神社仏閣がある。これらをめぐりながら、幻の都に思いをはせてみよう。

●清盛塚と古代大輪田泊の石椋

兵庫運河に架かる清盛橋のたもとに高さ8.5mの石造十三塔の清盛供養塔が建つ。長い間清盛の墓所と考えられていたが、大正12年(1923)市電道路拡張工事が行われ、「琵琶塚」のあった現在地に移転した際、供養塔と判明した。
石塔の横にある清盛像は昭和43年(1968)に建てられたもの。
運河に架かる清盛橋
運河に架かる清盛橋

清盛塚
清盛塚
清盛像
清盛像

三重の塔、清盛像、筆塚が並ぶ
三重の塔、清盛像、筆塚が並ぶ
札場の辻
札場の辻

船大工町の運河沿いは、清盛による日宋貿易の拠点となったところ「大輪田泊」だ。泊とは港のこと。今は小型船が停泊する小さな港だが、ここに巨石が置かれている。
これは清盛が築いた経ヶ島の遺財と考えられていたが、最近の発掘調査によると、奈良時代から平安中期の遺構と建物の一部が発見、当時の港湾施設だったということが判明。巨石は大輪田泊の石椋(いわくら)の石材だったという。

石椋が見つかった付近は今でも運河として使われている
石椋が見つかった付近は今でも
運河として使われている

大輪田泊の防波堤などに使われた巨石
大輪田泊の防波堤などに使われた巨石

●築島寺(来迎寺)と七宮神社

石椋の石材から通りを挟んだところにある。阿弥陀仏を本尊とする浄土宗の寺院。マンションなどに囲まれた小さな寺だが、清盛が経ヶ島を築造する際、度重なる暴風雨と大波に工事が進まず難儀をしていたところ、少年が経文を書いた石とともに海中に沈み、海神の怒りを鎮めたという。
その伝説の少年、17歳の松王丸や工事の犠牲になった人々の菩提を弔うために清盛によって建立された。
清盛が経ヶ島工事の犠牲者を悼んで作った築島寺
清盛が経ヶ島工事の犠牲者を
悼んで作った築島寺


また境内には清盛の愛人といわれた妓王・妓女の墓がある。
一方、七宮神社は経ヶ島築造のため山に祀られていた山神の怒りを鎮めようと清盛が建立したもの。

清盛の愛人といわれた妓王・妓女の供養塔
清盛の愛人といわれた妓王・妓女の供養塔
人柱となった松王丸の供養塔
人柱となった松王丸の供養塔

経ヶ島築造で神の怒りを鎮めるために築かれた七宮神社
経ヶ島築造で神の怒りを鎮めるために
築かれた七宮神社
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

七宮神社の近くに江戸時代に北方航路で活躍した高田屋嘉平の店の跡があった
七宮神社の近くに江戸時代に北方航路で
活躍した高田屋嘉平の店の跡があった


●和田神社

清盛は最初に新都市造営の候補地とした和田(現兵庫区と長田区の一部)に、国際交易港として港造りからはじめた。現在は和田岬と呼ばれJRの兵庫駅と和田岬駅を結ぶ終点である。神社は和田岬駅の近くにある。海の守り神として崇拝される。
昔、蛭子大神が淡路から和田岬に上陸したため「蛭子の森」といわれていた。承安3年(1173)、清盛が大輪田泊を修築する際に、事業の無事と繁栄を祈願して、安芸国厳島神社より弁財天を勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祀ること)したと伝えられている。
和田岬の地名だけが清盛の時代を偲ばせる
和田岬の地名だけが清盛の
時代を偲ばせる


和田神社の大鳥居
和田神社の大鳥居
震災で倒壊した関西一の鳥居の額文字
震災で倒壊した関西一の鳥居の額文字

●薬仙寺

後白河法皇が清盛によって幽閉された御所跡といわれ、境内には「萓御所跡の碑」が残されている。萓の御所は牢の御所ともいわれていた。
伊豆国に流された文覚上人は、その地で源頼朝と出会い、後に萓の御所に忍び入り後白河法皇より院宣(上皇または法皇の命令を伝える公文書)を授かり、頼朝に平家征伐を勧めたといわれている。
名刹・薬仙寺
名刹・薬仙寺

後白河法皇が幽閉された萱の御所跡
後白河法皇が幽閉された萱の御所跡
後醍醐天皇の病が治ったと伝えられる霊水の井戸
後醍醐天皇の病が治ったと
伝えられる霊水の井戸


●金光寺

清盛の夢枕に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探すように」とのお告げがあり、さっそく大輪田の海に網を下ろすと海中から黄金の薬師如来像が見つかった。黄金の薬師如来を本尊とする真言宗の寺院。
清盛が経ヶ島築造に着手した承安3年(1173)、隆善法師によって開基された。
17年前の阪神淡路大震災後に建て替えられ、寺院や境内にも歴史の跡も面影はない。
大輪田の海で清盛が引き揚げた薬師如来像が本尊だという
大輪田の海で清盛が引き揚げた
薬師如来像が本尊だという


●能福寺

清盛が出家した寺といわれ、また養和元年(1181)に京で没した清盛の遺骨を、住職・円実法眼がこの寺に持ち帰ったという。境内には清盛廟が残されているが、遺骨の行方は定かではないそうだ。
もうひとつ、この寺は兵庫の大仏として名高い。像の高さは11m、蓮台と台座を含めると18mにも及ぶ巨大な坐像である。明治24年(1891)豪商、南条荘兵衛の寄進によって建立されたが、第二次世界大戦中に貴属回収令で国に供出、現在の大仏は平成3年(1991)に再建されたもの。
兵庫の大仏
兵庫の大仏
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


清盛の墓と伝えられるが…(中央の塔)
清盛の墓と伝えられるが…(中央の塔)
能福寺内で見つかった源氏・平氏の将兵供養塔
能福寺内で見つかった
源氏・平氏の将兵供養塔


●真光寺

清盛が福原遷都の際、都の周辺に祀った7つの弁財天の一つはここにあったと伝えられている。正応2年(1289)一遍上人により開祖。一遍上人は鎌倉時代中期を代表する僧侶。踊りながら念仏を唱える『踊り念仏』で各地を遊行した僧として有名。
踊り念仏は当時の人々に宗教的な高揚と開放的な癒しをもたらし民衆の間で受け入れられた。上人は鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派、時宗(じしゅう)を開祖したことでも名高い。この寺の観音堂で51歳の生涯を閉じ、境内には一遍上人の廟所がある。

真光寺には一遍上人の墓所がある
真光寺には一遍上人の墓所がある
清盛の時代には和田の笠松として船の目標となる松があった
清盛の時代には和田の笠松として
船の目標となる松があった


一編上人の墓
一編上人の墓
真光寺の井戸。清盛がお茶を飲んだという
真光寺の井戸。清盛がお茶を飲んだという

和田神社からはじまった福原京大輪田よりJR山陽本線を挟んで山に向うと、そこには平家ゆかりの7つの神社仏閣が、急な坂道と狭い道を通して点在する。その神社仏閣には駐車場がないことがあるので注意しよう。
池の大石は清盛が魚を供養したお堂の礎石という(阿弥陀寺)
池の大石は清盛が魚を供養した
お堂の礎石という(阿弥陀寺)


●厳島神社

山の麓にある。この付近は湊川の川筋にあたり、地下水も豊富だったところ。昔は「渦輪」と呼ばれ清盛は治水のため、この神社を建てた。
神社では毎年針供養が行われる。心のない物質に対しても、そのお陰を感謝するという神道の信仰から由来する行事である。
厳島神社を清盛は治水と大輪田泊の安全を祈念して勧請
厳島神社を清盛は治水と大輪田泊の
安全を祈念して勧請


●荒田八幡神社・宝地院

この周辺の土地は高台になっていて、都の重要な地であった。清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘があったところ。
治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となった。境内には安徳天皇行在所趾の碑の他、昭和55年(1980)、福原遷都八百年記念碑もある。
荒田八幡神社の近くにある宝地院は、二位尼時子に抱かれて入水した安徳天皇の菩提を弔うため、弘安2年(1279)に建てられた寺だが、現在は幼稚園の敷地内にあり、許可なく入ることはできない。
宝地院。安徳天皇菩提寺。高倉天皇御在所。今は保育園の中
宝地院。安徳天皇菩提寺。
高倉天皇御在所。今は保育園の中


荒田八幡神社。安徳天皇の仮御所。清盛の弟、頼盛の山荘があった
荒田八幡神社。安徳天皇の仮御所。
清盛の弟、頼盛の山荘があった

安徳天皇行在所の碑
安徳天皇行在所の碑

●祇園神社

清和天皇の貞観11年(869)、姫路市北にある広峰神社よりスサノオノミコトの分霊を京都八坂神社に遷座するとき、その神輿をこの地に一晩お泊めした。そのとき、スサノオノミコトの霊験あらたかなのを仰ぎ、国家の鎮護を祈り、この地に社を建立したと伝えられている。
スサノオノミコトは祇園精舎の守護神とされた牛頭天王(ごずてんのう)と同一視されたことから「祇園神社」という名がついた。牛頭天王とは、インドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神とされ、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座する神。
祇園神社から大輪田泊方面を見る
祇園神社から大輪田泊方面を見る
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


祇園神社
祇園神社
祇園神社の階段
祇園神社の階段

清盛は祇園神社の裏山で海潮の響きを聞きながら、経ヶ島の計画を練ったと伝えられている。

●雪見御所跡と夢野八幡神社

湊山小学校の敷地の壁に記念碑があるだけだが、清盛の別荘「雪見御所」の跡地といわれている。明治41年(1908)に校庭から礎石や土器などが発掘された。
夢野八幡神社は、福原遷都に先駆けて、治承元年(1177)に建てられた。清盛は福原の全域を展望できるこの場所で“のろし”をあげて新しい都の位置を測ったといわれている。

雪御所地蔵。御所跡は広く公園、小学校もある
雪御所地蔵。御所跡は広く公園、
小学校もある

雪見御所跡
雪見御所跡

夢野八幡。のろしを上げ建設途上の福原全域で位置確認をした
夢野八幡。のろしを上げ建設途上の
福原全域で位置確認をした

夢野八幡は小さな神社。山の急斜面にある
夢野八幡は小さな神社。
山の急斜面にある


●氷室神社と熊野神社

氷室という名前の由来は、仁徳天皇の兄・額田大中彦皇子が氷室を発見し、仁徳天皇に氷を献上したことから付いた。源平合戦のときには平教経がこの神社に陣取ったため、ここにある井戸は「陣場の井」と呼ぶ。
熊野神社は、国生みの神、イザナギ・イザナミの二神を祀る神社。清盛が遷都に際して紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。

氷室神社。清盛が勧請した
氷室神社。清盛が勧請した
熊野神社。福原遷都のため清盛が勧請した
熊野神社。福原遷都のため清盛が勧請した
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)




○ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

○兵庫県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、兵庫県内の営業所リストをご覧いただけます。


神戸公式観光サイト FeelKOBE
異人館をはじめ神戸のみどころやグルメ、ショッピング情報も充実。エリア別の定番モデルコースも見られる。
KOBE de 清盛
清盛ゆかりの神戸を街の新たな魅力として発信。2012年は大河ドラマを記念して市全域でイベントなどを行う。

取材:2012年2月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。