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坂本龍馬・東京編

ドライブライン

旧岩崎邸 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の主人公龍馬は高知から江戸へ。19歳の龍馬は嘉永6年(1853)3月17日土佐を出発、東海道を歩き4月下旬江戸に到着した。その約1ヶ月後にペリー率いる黒船が浦賀に来航、時代は激震していた。千葉道場で剣術の修行に励む傍ら、桂小五郎や佐久間象山らに出会い多くを学び、時代の風を感じていた。
二度目の江戸では土佐藩の品川江戸屋敷の警備に就くなど、龍馬はいまも東京に多くの足跡を残す。維新の志士たちが江戸を舞台に活躍し、さらに龍馬の夢を引き継いだ岩崎弥太郎の息子・久弥が建てた豪壮な屋敷「旧岩崎邸」など、建物や遺構、碑などから当時を偲び、変貌を遂げた大都会・東京を探索してみた。


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ドライブライン

<コース>
東京駅−皇居大手門−お茶の水ニコライ堂−上野・旧岩崎邸庭園−西郷隆盛像−浅草より隅田川を渡り勝海舟像−勝海舟生誕地−両国橋−馬喰町・伝馬町牢屋敷跡−丸の内・千葉定吉道場跡−土佐藩上屋敷跡−土佐藩築地下屋敷−銀座・佐久間象山塾跡−(国道15号線)−鮫洲・山内容堂の墓−立会川・土佐藩品川下屋敷跡−浜川砲台跡
行程 約40km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●大手門から皇居東御苑内へ

皇居東御苑は江戸時代の江戸城跡で大奥、松の廊下、本丸、二の丸、三の丸のあった場所。今は樹林と芝生の広場となっている。天守閣は1657年の明暦の大火で焼失、その後も再建されることはなかった。
現在は天守閣の石積や広い敷地が残されているだけだが、散策しながら江戸時代徳川家の居城として栄華を誇った城中を想像することができる。
やがて訪れた幕末・明治の激変で新政府軍に明け渡され、明治2年(1869)皇城となった。後、昭和23年(1948)皇居と改められた。
昭和43年(1968)から一般公開されており、入苑は無料だが、入る時には入苑札を受付で受け取り、退苑時にはそれを返す。

皇居・大手門
皇居・大手門
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皇居・平川門
皇居・平川門

東御苑への入り口は三ヶ所。旧江戸城の正門だった大手門と、大奥の女中たちの出入り口であり梅林坂で有名な平川門、そして大奥に近く堅固で高い石垣の北桔橋門だ。駐車場は桔橋門と道をはさみ、北の丸公園の中にある。

●ニコライ堂

大手門から北、お茶の水に建つ高さ35mの緑青のドーム屋根は、明治24年(1891)に竣工された日本ではじめての本格的なビザンチン様式の教会建築だ。
高知生まれで坂本龍馬とともに武市半平太塾に学んだ澤辺琢磨は、正教会のロシア人修道司祭聖ニコライのもとで、日本キリスト教会初の信者となる。後に箱館(現 函館)に渡り最初の日本人司祭となった人物だ。
だが実は酒に酔って金時計の盗難事件を起こし、龍馬は二度目の江戸で同宿していた武市瑞山(半平太)と協力、切腹を覚悟の琢磨を箱館に逃した。函館に逃れた琢磨はロシア正教に入信し、やがて司祭となった。ニコライ堂の建物は龍馬とは直接関係はないが、同胞が妙な経緯から、正教会の司祭になったエピソードが面白い。

●旧岩崎邸庭園

岩崎弥太郎の長男・久弥によって明治29年(1896)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた。設計者はイギリス人ジョサイヤ・コンドル。現存するのは、迎賓館としての木造西洋館、木造ゴシック建築の撞球室(ビリヤード)、書院造りの和館の3棟だが、建設当時は1万5,000坪の敷地に20棟もの建物があった。
洋館及び撞球室は国の重要文化財に指定されているが、和館の一部や煉瓦塀などを含めた屋敷全体も同様に重要文化財である。
現在、進行中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で、下層階級の武士からいままさに飛びだそうとしている岩崎弥太郎が、三菱財閥の基礎をつくったと思うと感慨深い。
/入園料 400円、TEL 03-3823-8340

旧岩崎邸
旧岩崎邸
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バルコニーから見る岩崎邸、庭園の一部
バルコニーから見る岩崎邸、庭園の一部

●西郷隆盛像

薩摩藩の盟友・大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並んで「維新の三傑」といわれた日本の武士・軍人・政治家である。大政奉還前夜、西郷隆盛は坂本龍馬・後藤象二郎らと会い、薩土盟約を結んだ。
西郷の死後21年、明治31年12月18日に除幕式が行われた西郷隆盛像は、当時宮内省より500円を下賜されたほか、全国2万5,000人余の寄付金で建立された。こうして100年以上「上野の西郷さん」として親しまれている像の作者は高村光雲であり、犬は後藤貞行の作である。
上野の山の西郷さん
上野の山の西郷さん

彰義隊の墓地(上野公園)
彰義隊の墓地(上野公園)
夕暮れの不忍池
夕暮れの不忍池
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●勝海舟生誕地と像

文政6年(1823)本所亀沢町、現在の両国4丁目で生まれた。幼名は麟太郎といった。吾妻橋から向島近辺は、勝海舟が24歳まで剣の修行や禅などで心身を鍛えていたところ。

両国公園
両国公園
勝海舟誕生の地(両国公園)
勝海舟誕生の地(両国公園)

蘭学海洋術を学び、幕府軍艦咸臨丸の艦長として渡米。日本初の太平洋横断の偉業をなしとげた。慶応4年(1868)3月13日、三田の薩摩藩邸で西郷隆盛と会談、江戸城の開城を決定し、無血入城を果たした。この江戸百万の庶民を戦禍から救ったことは有名な話である。
また勝海舟を刺殺しようと坂本龍馬は、赤坂氷川の海舟屋敷を訪ねた。だが敵視していた海舟に世界情勢と攘夷論の愚かさを論じられ、海軍の創設とその莫大な費用を生み出す貿易の必要性を教えられ、即、弟子入りを決めたという。

生誕地には碑があるだけだが、隅田川ほとりの墨田区役所横にある「うるおい広場」には台座を含めた高さ5.5mの勝海舟の像が建つ。平成15年に建立された。区役所1階には「勝海舟コーナー」があり、海舟の肖像、年譜、咸臨丸難航図などが解説展示されている。(無料)

サンフランシスコでの勝(1860年)
サンフランシスコでの勝(1860年)
墨田区役所裏の「うるおい広場」の勝海舟像。東京湾を指さす
墨田区役所裏の「うるおい広場」の
勝海舟像。東京湾を指さす


墨田区役所の勝海舟コーナー。西郷との会見の様子もある
墨田区役所の勝海舟コーナー。
西郷との会見の様子もある

隅田川の夕暮れ
隅田川の夕暮れ
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通りの標示も洒落てます
通りの標示も洒落てます
ユーモラスな鰻屋のイラスト(日本橋)
ユーモラスな鰻屋のイラスト(日本橋)

●伝馬町牢屋敷跡

明治8年(1873)に市ヶ谷囚獄ができるまでの約270年もの間この場所に牢獄があった。現在は地下鉄都営浅草線馬喰町の近くで「十思公園」という小さな公園になっている。

当時は周囲を土塀や堀で囲んだ広い敷地だったという。受刑者を弔うために、明治のはじめに創建されたという新高野山大安楽寺には処刑場跡の碑が建っている。
幕末の志士たちに多大な影響を与えた吉田松陰も、この地で刑死している。園内奥には吉田松陰終焉の地の碑が建つ。
園内にある鐘は死刑を宣告された人が処刑される時に撞いたという。現在は、こうした暗いイメージはなく、昼時には、木陰のベンチでお弁当を広げるサラリーマンの姿が見られる。
十思公園
十思公園

十思公園の鐘突堂
十思公園の鐘突堂
松蔭はこの地で処刑された
松蔭はこの地で処刑された

安楽寺と処刑場跡の碑
安楽寺と処刑場跡の碑
処刑場跡の碑
処刑場跡の碑

●千葉定吉道場跡

龍馬が江戸で剣術の稽古をした千葉道場は2ヶ所ある。千葉周作は北辰一刀流の開祖で、道場は「玄武館」といい、「お玉が池」のほとりにあったという。

周作の弟である定吉は小千葉と呼ばれ道場は京橋桶町にあり、龍馬が通った道場はここで、玄武館道場より稽古が厳しかったようだ。
しかし、確かな場所がわからないいま、古地図の新材木町(現 日本橋堀留町)に千葉定吉の名があることから、道場はここにあったのではないか。さらに鍛冶橋付近ではないかともいわれているが定かではないようだ。
「玄武館」は現在の岩本町、廃校になった元千桜小学校の正門内に碑があり、簡単な説明板がある。
千葉周作道場跡は小学校となり、それも廃校になっている
千葉周作道場跡は小学校となり、
それも廃校になっている


お玉が池跡はビルの谷間で小公園になっていた
お玉が池跡はビルの谷間で
小公園になっていた

千葉周作道場跡。龍馬の学んだ定吉道場は近くにあったが不明
千葉周作道場跡。龍馬の学んだ
定吉道場は近くにあったが不明


●山内容堂の墓

千葉道場から土佐藩上屋敷までは徒歩でも10分ほどだ。その上屋敷跡は、いまは有楽町東京国際フォーラムあたりであり、土佐築地下屋敷跡は現在の中央区役所付近という。国道15号線三田交差点(現 三菱自動車前)には薩摩藩屋敷跡で、江戸開城が決まった「江戸開城西郷南州勝海舟会見之地」の碑がある。

西郷・勝会見の跡(東京・三田)
西郷・勝会見の跡(東京・三田)
山内豊信の墓所(立会川・土佐山)
山内豊信の墓所(立会川・土佐山)

さらに15号線を下り品川の先、京浜急行・鮫洲駅付近に、15代土佐藩主山内豊信(容堂)の墓がある。大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に尽くし、明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、明治5年(1873)45歳の若さで没した。遺言により、大井村の土佐山と呼ばれたこの地に埋葬された。立会川小学校の脇にある。

元麻布・善福寺に初のアメリカ公使館が誕生。ハリスが公使として赴任
元麻布・善福寺に初のアメリカ公使館が
誕生。ハリスが公使として赴任

元麻布・善福寺にある福沢諭吉と妻・阿錦の墓
元麻布・善福寺にある福沢諭吉と
妻・阿錦の墓


●なみだ橋と浜川砲台跡

鮫洲の一つ先の立会川駅から国道15号線をはさんだ坂の上には土佐藩品川下屋敷があったところだという。今は狭い路地に住宅が密集し、その位置は確かではない。屋敷と隣接していたという来福寺があり、その山門は当時のままだそうだ。

来福寺山門。土佐屋敷に隣接していたという
来福寺山門。土佐屋敷に隣接していたという
来福寺から国道15号線への参道。家が建ち並びむかしの面影はなし
来福寺から国道15号線への参道。
家が建ち並びむかしの面影はなし


このあたりは東海道第1番目の宿場町「品川宿」で宿場の南端に立会川が流れていた。この流れに架かる浜川橋は別名「なみだ橋」という。
これより外には「鈴ヶ森刑場」があり、江戸を裸馬に乗せられて引きまわされた上、刑場へ向かう罪人を、親戚縁者が秘かに涙を流して見送ったことから橋の名となったといわれている。
立会川に架かるなみだ橋
立会川に架かるなみだ橋

浜川橋(なみだ橋)のたもとにも土佐藩抱屋敷があった。海からの荷揚げの場所として使われ、屋敷といっても建物はなかった。
嘉永6年、アメリカ東インド艦隊ペリー長官が浦賀港に現れてから、江戸湾近くに屋敷を構える大名は、幕府からの命令で警備にあたった。警備陣は土佐藩下屋敷に陣を敷いた。そのとき龍馬も警備陣に加わった。土佐藩は鮫洲抱屋敷などに大砲を備えた。その一つの「浜川砲台」跡がある。
砲台跡への道標
砲台跡への道標

砲台があった付近。ビルの辺りはずっと海だった
砲台があった付近。ビルの
辺りはずっと海だった

浜川砲台跡は石垣の積み石数個が残るだけ
浜川砲台跡は石垣の積み石数個が残るだけ

●立会川の龍馬像

平成16年(2004)砲台跡から砲台の石垣の一部と思われる石が発見され、これを高知市の「坂本龍馬が生まれた町記念館」へ寄贈した。その年の11月、高知市から龍馬の像を友好のシンボルとして、品川へ贈られたという。その像を平成21年(2009)10月になって北浜川児童公園に建てたと地元の観光ボランティアの人が言った。
5年間の眠りから覚めた龍馬像を見上げて、「商店街の福の神」だと、その人は笑った。
東京・立会川駅前の龍馬像
東京・立会川駅前の龍馬像

突然、龍馬をお出迎え(立会川商店街)
突然、龍馬をお出迎え
(立会川商店街)

立会川・なみだ橋付近はいつの間にか「龍馬の街」に…
立会川・なみだ橋付近は
いつの間にか「龍馬の街」に…




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千代田区観光協会
皇居周辺、秋葉原周辺などエリア別の観光情報やおすすめコース、街あるき地図などが用意されている。
しながわ観光協会
品川区の観光情報を掲載。「しながわまち歩きマップ」では来福寺など立会川周辺の情報も見られる。

取材:2010年2月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。