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東海道400年(2)
島田宿から赤坂宿へ






島田−(国道1号線)−大井川−金谷−中山峠−舞阪−御油−赤坂
約150km、1泊2日




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●大井川へ

品川から21番目の宿、島田で泊まった旅人は“越すに越されぬ大井川”に向けて出発 。
江戸時代、とくに初期には、多くの川は江戸城を守るため架橋渡船が許されなかった。大井川もまた幕府の名目は「急流で危険」ということだったが実際には軍事的なこと。そこでこれらの川では“川越人足”が活躍、旅人を対岸まで運んでくれた。
この川越制度ができたのは元禄9年(1696)、川を挟んだ島田と金谷の宿を潤し、江戸末期には川越人足が650人ほどもいたとか。
国道1号線、橋のたもとには島田宿や歴史文化などを紹介する「島田市博物館」があり、その近くには川越人足や番屋などが復元された博物館分館がある。
/入館料 300円、TEL 0547-37-1000

●金谷宿から浜松・舞阪へ

島田宿と並んで金谷も川越人足で繁栄した宿で、とくに川が増水したとき“川止め”となると、人足は仕事はなくなるが宿場はおおいに潤った。
当時の人足の装束や暮らしぶりなどを知りたい人は、大井川鉄道の新金谷駅近くにある「川越し資料館」に寄ってみたい。
/入館料 無料、TEL 0547-45-0666

●中山峠

宿場を出るとすぐ待っているのが、中山峠に続く金谷峠だ。
全面石畳舗装されていたが胸突き八丁のような急な登りは旅人泣かせだった。
平成3年に復元された全長430mに次いで、今年の4月には西側の菊川坂の610mが復元終了する。もちろん徒歩のみ。
金谷側の石畳を上りきったところには諏訪原城跡がある。この城は武田信玄が築いた砦を子勝頼が天正元年(1573)に修築した山城だ。だが、その2年後に家康によって落城。いまも井戸などの遺跡が残っている。駐車場はない。

国道1号線中山峠、トンネルの少し脇には夜泣き石伝説の「小夜の夜泣き石」がある。
ひとりの妊婦が中山峠を越えるとき、山賊に襲われて殺されてしまった。お腹の赤子は無事だった。近くの寺の住職が拾い水飴で育てたが、母親の霊が石に乗り移り、夜ごと泣くという。
その住職の寺は旧街道にある久延寺で山内一豊が徳川家康をもてなした茶室がある寺としても有名だ。この境内にも「夜泣き石」がある。どちらが本物かは別にしても、丸い大きな石は広重の東海道にもこの「夜泣き石」として描かれている。
子育ての水飴は当時は餅に飴をかけたもので、峠の茶屋の名物として並んでいた。いまは「餅飴」ではなく麦芽だけを使った琥珀色の飴だ。創業が江戸時代という一軒だけがトンネルの手前に残っている。

トンネルの上を通る旧道は小夜の一里塚跡を左手に見て再び1号線と合流したりしながら掛川市内へと入る。
室町時代に駿河の今川義忠が築城、戦国時代には山内一豊が城主となって天守閣を建てた。現在は江戸時代後期の二の丸御殿があり国の重要文化財となっている掛川城に立ち寄る。
/入城料 300円、TEL 0537-22-1146

少し先を急げば浜名湖畔の舞阪宿だ。

●舞阪宿

舞阪宿は江戸から数えて30番目の宿場だ。松並木の残る旧街道には常夜灯と脇本陣がある。
旧東海道で書院棟が残されている脇本陣の遺講を残すのはここだけだ。建物は平成9年に復元された。
本陣に比べ脇本陣は旅館だが、本陣の補助的役割をはたしていたところ。
本陣は平屋だが脇本陣は2階屋が多かった。

館内には湯殿、炊事場などがあり、当時の高級旅館の雰囲気を残している。殿様が使ったという奥の部屋へも入れるし、頼めば錦の座布団を敷かれた玉座にも座ることができる。殿様になった気持ちで記念撮影をした。
入館料は無料で案内もしてくれる。
/TEL 0535-96-3715

ここより西へは渡し船で浜名湖を行く。4時間もの船旅を嫌った女性たちのために北を迂回し、天竜川をわたる古い街道もある。これを姫街道と呼んだ。
「今切の渡し」は漁港の入り江にある。寛文1年(1661)に4年の歳月をかけて石垣を築き、石畳を水際まで敷いた船着き場は“雁木”といい身分の高い人と庶民とは南北で分かれていた。現在残るのは地位の高い人のみが使った“北雁木”跡だ。
現代の足“車”は1号線を弁天島を通り長い橋をわたって新居へと入る。

●新居関所

渡し船を下りた旅人を待っていたのは箱根と並んで取り調べの厳しい「新居の関所」だ。旧街道は橋をわたると歩道橋のある交差点で1号線と分かれる。
関所は慶長6年(1606)東海道施行と同時に建造されたとか。残っているのは地震や津波で2度の移転の後、安政2年(1855)に現在の場所に造られたもの。関所のさまざまな施設があったが、いまは復元された面番所だけだ。
新居関所資料館が隣接している。館内には関所の資料や道具、通行手形、当時の旅の携帯品などが展示されている。
/入館料 300円、TEL 0535-94-3615

新居から潮見バイパスの合流地点までの約10kmの間には、秋には紅葉の美しい「紅葉寺」、幕府・大名が法令や禁止令を掲げた高札場跡があり、駿河湾の眺めがよく安藤広重も描いた潮見坂もある。だがいまはかつての面影はない。

●御油・赤坂宿

再び国道1号線を辿り、豊橋市内を抜けると東海道一の歓楽地ともいわれた御油(ごゆ)・赤坂宿に着く。
御油・赤坂間はわずか1.7kmと近い。御油宿から赤坂宿ににかけてこの旧道には現在も約600本の黒松が残り当時の街道そのままを思わせる風景に思わずわくわくする。
「御油・赤坂・吉田がなけりゃなんのよしみで江戸通い」とは当時の詩に歌われた言葉だが、一つ手前の宿吉田と並んだ三宿は殿方にとっては道中の極楽のようなところであったらしい。
「飯盛り女」とは遊女とは異なり、三味線も踊りも必要とせず旅人を慰める女という。
享保3年(1718)将軍徳川吉宗は、宿場の間接援助のため「飯盛り女」の名目で「宿屋一軒につき二人、ただし木綿にて相勤めよ」と許可した。といっても、宿屋は法の裏をかき木綿を着せた女を表に出し、奥には化粧し絹の着物を着た女を抱えていたという。宿場の盛衰はこうした女性たちの肩にかかっていたといっても過言ではなかった。
こうして宿場町のどこにでもいた「飯盛り女」だが、ここ御油・赤坂は盛んだった。二つの宿場の距離が近かったことから客を奪い合う。結果、各宿が「飯盛り女」の数を多く置きサービスにつとめたとか。
広重の絵にも御油・赤坂の旅籠で客の首筋や襟まで掴む女たちの強引な客引きの図があることからも伺える。

●東林寺

一方、御油には女たちの悲劇も多くあった。貧しい農村や漁村から売られた女たちは10年の奉公をしたが、逃走や自殺は親元に3倍もの賠償金が課せられた。年季が終わっても多くは引き取り手もほとんどなかったという。この寺には無念のうちにこの世を去った女たちが眠る墓がある。

赤坂にはいまも 旅籠「大橋屋」 が昔の旅人を迎えたままの姿で残る。享保元年(1716)の建物だ。
大橋屋の近くにある浄泉寺には、大橋屋(伊右ェ門鯉屋)が広重の描いた庭のソテツを「ソテツは金を食う木だから」と手放しこの寺に移植。境内に立派に育っている。

これより藤川を過ぎて岡崎まで約20km。赤坂で長居をしたため日も暮れて、現代の宿を求めて岡崎へと急いだ。



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「街道ウォーキング」で愛知県を中心とした東海道などを紹介している。

取材:2001年4月