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唐津・東松浦半島

ドライブライン

呼子と加部島に架かる橋の下には弁天島への遊歩道 九州の西北端にある唐津は、その昔、「唐へと続く玄関口(津・港)」ということから『唐津』という地名になったといわれている。また日本の稲作発祥地ともいわれ、縄文・弥生時代の遺跡も多い。「日本書記」や「古事記」「肥前風土記」にも記され「万葉集」にも多くの歌が残されている。
そして時代は変わり、豊臣秀吉が朝鮮出兵に構えた名護屋城跡とその周辺には諸大名の陣営があり、当時は京都にも増して賑わったという。同時に秀吉が朝鮮から連れてきた陶工たちによりロクロや登り窯などの技術が伝わり「唐津焼」が生まれた。
玄界灘に突き出た半島はリアス式海岸の変化に富んだ風景と、ゆるやかな丘陵地の自然に恵まれ、豊な海の幸、川の幸、山の幸と味覚をも満足させてくれる。


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ドライブライン

<コース>
佐賀市−(国道207号線)−五条−(国道203号線)−相知町−(見返りの滝−鵜殿の石仏群)−唐津市−呼子町−玄海町−伊万里市
行程 約150km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●見返りの滝

落差100メートル。見返りの滝は見事
落差100メートル。見返りの滝は見事
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国道203号線、多久市と相知町の中間、JR唐津線相知駅から東に約4km、谷沿いに登ると、行き止まりかと思うところに寺の境内と駐車場があった。さらにその上、滝の近くにも駐車場があるが、スペースは少なくシーズン中はすぐ満車になる。
佐賀県内では最大の滝であり、日本の滝百選にも選ばれている名瀑だ。落差約100mで、滝は二股に分かれ、水量の多い方の向かって右側が男滝、左側の水量の少ない方を女滝という。滝の背後は修験者の霊山でもあった作礼岳(標高887m)がそびえ、この滝も山伏の修行場だった。滝周辺はあじさいの名所としても有名で、開花時期は交通規制がされる。
/問い合わせ 唐津観光協会、TEL 0955-74-3355

●鵜殿石仏群

再び国道203号線へ戻り、この国道を横断して約1km、相知町体育館の建つ崖の下一帯にある。
岩壁や洞窟に彫られて大小60余りの磨崖仏がある。大同元年(806)空海上人(弘法大師)が唐より仏教修行をした帰りにこの地に立ち寄り、釈迦如来、阿弥陀如来、観音菩薩の三対の仏を岩肌に彫ったのがはじまりと伝えられている。現在は60数体の石像があるが、いずれも南北朝時代(14世紀)と室町時代(15〜16世紀)のものだ。
ただし、空海が彫ったという三対の仏像は存在しない。
相知の鵜殿石仏群。洞窟と周辺には沢山の仏像が彫られている
相知の鵜殿石仏群。洞窟と周辺には
沢山の仏像が彫られている


胎内くぐりや崩壊した洞窟もあり、神秘性を感じる。鵜殿山は仏教の修行場の一つで、密教の色彩が色濃く感じられる。
/問い合わせ 唐津観光協会、TEL 0955-74-3355

●唐津城

玄界灘に面してそびえる城は文禄4年(1595)豊臣秀吉は側近である寺沢広高を唐津の地に封じて、朝鮮出兵の根拠地名護屋城の後詰めとしての城を築かせた。慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて、唐津城を築いたのが城下町唐津の歴史である。
現在の唐津城の本丸跡は「舞鶴公園」として整備され、この本丸跡に建つ城は、昭和41年(1966)、築城主の寺沢氏時代の慶長様式を取り入れて復元されたものである。
五層五階の天守閣を鶴の頭に、左右に広がる松原を翼に見立て「舞鶴城」とも呼ばれている。

唐津城
唐津城
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唐津城内にあるホルトノキ
唐津城内にあるホルトノキ

唐津城から舞鶴橋(手前)と松浦橋
唐津城から舞鶴橋(手前)と松浦橋
公園内には樹齢300年を超えるホルトノキの巨木がある。ホルトノキとはポルトガルの意味で、昔、この木をオリーブと混同していたという。主に四国、九州、沖縄に分布する常緑高木。
海抜43mの上段に建つ天守内部には唐津藩の貴重な資料や唐津焼などを展示するコーナーもある。天守閣最上階からは、松浦湾に沿って続く虹の松原、宝島として知られる高島などは一望に見渡せる。
/入館料 400円、TEL 0955-72-5697

●時の太鼓

舞鶴公園の西には二の門堀の一部が残り、その脇には時の太鼓櫓がある。
初代寺沢広高が藩主となって以来、大久保、松平、土井、水野、小笠原と270余年間、江戸幕府の譜代大名として唐津藩を統治してきた。その四代藩主土井公時代に「時鐘」が置かれ、六代小笠原公時代に、この場所に「時打櫓」として設置された。
現在再現された「時の太鼓」はからくり仕掛け時計で、午前7時から午後7時の毎正時に、太鼓の音とともに中から武士人形が大太鼓を打ちならす。
時の太鼓
時の太鼓

●虹の松原

虹の松原海岸
虹の松原海岸

虹の松原。ドライブも快適
虹の松原。ドライブも快適
藩初代、寺沢広高が、防風、坊潮林として植林したのがはじまり。いまでは、全長5km幅1kmにわたり、約100万本の松が唐津湾沿いを虹の弧のように連なることから「虹の松原」といわれる。
静岡の三保の松原、福井の気比の松原と並んで、日本の三大松原の一つで、国の特別名勝に指定されている。

●からつ曳山展示場

唐津といえば「くんち」だ。豊穣の秋祭り「唐津くんち」は毎年11月3・4日に行われる。飾り提灯に彩られ、鉦、笛、太鼓の曳山囃しに法被姿の曳子たちが14台の曳山を曳く。ある時は走り、ある時は引き廻す。圧巻は、重さ2〜4トンもある曳山を西浜の砂地に曳き込み、その深い轍の中で競い合い、挑む姿こそ壮快無比な景観であり、これぞ数万の観衆を魅了するのだという。
江戸時代から明治時代にかけて作られた14台の曳山は、木組み、粘土の原型や木型の上に和紙を数百回も張り重ね、また麻布を巻き漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。完成まで2年を要したそうだ。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
/入館料 300円、TEL 0955-72-8278

大鯛のくんち
大鯛のくんち
浦島太郎と亀(手前)の、くんち
浦島太郎と亀(手前)の、くんち

●唐津神社

町の中心部にある白い鳥居が目印だ。天平勝宝(755)の創建と古く、唐・韓への渡海道中安全、火伏の神であり、唐津の総鎮守様である。また唐津の人々の心のふるさとともいわれ、最大の秋祭り「くんち」が行われる。
くんちは16世紀終わり頃からはじまった祭りで、くんち「供日」というところから収穫を感謝する意味が込められている。他に、九日、宮日とも書かれたことから神社の祭礼をさす意味もあるそうだ。
唐津神社
唐津神社

くんち料理は「三月倒れ」というのだと、唐津駅前近くの料理屋の主人の話。三月倒れとは、3ヶ月の収入を3日間で使い果たす、ということ。超高級魚であるアラ(別名クエ)の姿煮を作る。魚は小さいものでも6〜70cmもある。腹に大根やゆで卵などを詰め、醤油10本、酒10本で1日かけてじっくり煮る。
家々を回って料理を頂くのが「唐津くんち」の醍醐味。誰が来ても、何人来ても大丈夫ということだ。くんち料理を味わうには、まず唐津に友人をつくることだそうだ。

●呼子

日本海流(黒潮)と対馬海流(親潮)が合流する玄界灘は波が高く荒い。その海に突き出た東松浦半島は、変化に富んだリアス式海岸で、入り江を持つ沿岸はイカ、エビ、ひらめなど、身がしまった多彩な海の幸の好漁場でもある。
とくに半島の先端の呼子はイカの名産地。港はイカ釣り船がいっぱいに繋留され、町全体がイカづくしだ。このイカ目当てに訪れる観光客相手の料理や、売店、市場などがぎっしりと並ぶ。
漁協もイカでお出迎え
漁協もイカでお出迎え

呼子の港はイカ船でいっぱい
呼子の港はイカ船でいっぱい
イカを売る露店
イカを売る露店

なかでもお目当ては水槽に泳ぐ“イカの活き造り”だ。手早く皮を剥かれ、刺身用包丁を入れられたイカは透き通っていて、箸で触れると身がくねる。柔らかく甘みがあって旨い。
店によって料金の差があるので、複数の店に尋ねると「イカの種類が違う」とのことだった。柔らかくおいしいが値段の張るのはヤリイカで、時期によっては漁が少ないので、扱う店も少ない場合もあるとか。ちなみにヤリイカの活き造りいっぱい、訪ねた日は1,200円だった。地元としては決して安くない。

生け簀を泳ぐイカ
生け簀を泳ぐイカ
呼子はイカ刺しが売り
呼子はイカ刺しが売り

●呼子大橋と弁天さん

呼子と加部島を結ぶ全長700mの橋で、ハープ橋とも呼ばれている。流れるようなカーブを描いてかかる橋の支柱から、ハープの弦のように張ったワイヤーがあたかも楽器のハープのようであることから、この名がついた。
もとは呼子と加部島との間の瀬戸には、地元の人たちが「弁天さん」と呼ぶ広島の厳島神社の御分霊がある。文禄2年(1593)の「名護屋城絵図屏風」の中に祠が描かれているほど古い神社だ。呼子で捕鯨が盛んに行われていた江戸時代、船団は漁期のはじめに必ずこの神社に、海上の安全と豊漁を祈願した。いまは大橋の下、潮や風に浸食され倒れそうになった鳥居が、遠い昔を語るように立っていた。

呼子と加部島に架かる橋の下には弁天島への遊歩道
呼子と加部島に架かる橋の下には
弁天島への遊歩道
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秀吉も時に訪れたという弁天様は橋の下
秀吉も時に訪れたという弁天様は橋の下

●田島神社

呼子大橋を渡った加部島にある田島神社は、奈良朝天平時代に鎮座朝廷の尊崇厚い社である。神社の境内には古代悲恋伝説が残る佐用姫神社(佐興姫ともいう)がある。
「宣化天皇2年(537)、隣国の新羅に侵略されていた百済を救援するため、朝廷の命を受け、兵を率いて出陣する夫の軍艦を見送る妻佐用姫は、玄界灘を見渡す山に登り、遠ざかる船に領巾(ひれ)を降り続けた。船が遠ざかるにつれ、夫を慕うあまり山を駆け下り、川を越え船を追うが、海原に船の姿は消えていた。悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、とうとう石になってしまった。」という話。「海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫(さよひめ)」と万葉集にも詠われた佐用姫伝説だ。

田島神社の頼光鳥居。佐賀県最古で、約1000前のもの
田島神社の頼光鳥居。
佐賀県最古で、約1000前のもの

佐興姫神社(田島神社内にある)
佐興姫神社(田島神社内にある)

元寇の碇石。玄海灘で引き揚げられた
元寇の碇石。玄海灘で引き揚げられた
田島神社の力石。兵士が力を競ったという
田島神社の力石。兵士が力を競ったという

●名護屋城跡

名護屋城天守閣址からの展望
名護屋城天守閣址からの展望

全国を平定した豊臣秀吉は、天正19年(1591)明国への進出を目指した。もとは松浦の波多氏の一族である名護屋氏の古城跡に、朝鮮出兵の本拠として名護屋城を拡大増築した。加藤清正、寺沢高広が普請奉行となり、黒田長政、小西行長など九州の諸大名が総動員され、わずか5ヶ月余というスピードで完成した。
慶長3年(1598)秀吉が没し、秀吉の最大の愚挙といわれた戦が終わり、寺沢高広は名護屋城を廃城とし、この城の遺材を運んで唐津城を築城。
現在は、広大な城跡には何一つ復元されていない。だからこそ、この荒城に残る石垣、天守台、空堀、郭跡、井戸跡などから、秀吉の夢と叶わぬ野望の日々に思いを馳せ巡らせることができる。城の横には豪勢な博物館がある。(入館無料)。
往時、五層七重の天守だったという天守台跡から玄界灘が一望され、城の周囲には、福島正則、加藤清正などの陣屋が並び、徳川家康、伊達政宗は中心部から東に、前田利家などは北に離れた絶好の地に陣屋を構えていた。
名護屋城址
名護屋城址

天守閣址からの展望
天守閣址からの展望
名護屋城の太閤坂
名護屋城の太閤坂



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いいかも唐津
唐津観光協会による。おすすめ観光コース、郷土の味、おすすめ歴史コース、唐津焼はじめ特産品情報など。
呼子町周辺観光情報サイト
呼子町とその周辺の観光情報や宿泊施設、グルメ、催し物情報などを紹介。地元情報の掲示板も見られる。

取材:2007年2月