大阪から九度山・高野山へ〜真田信繁の足跡をたどる(1)

現在の大阪城天守閣は昭和6年(1931)に再建されたもので、日本の復興天守第1号。高さは約54.8m 現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』は、いよいよ終盤に差しかかっている。主人公・真田信繁(幸村)は高野山麓の九度山にて10年以上の雌伏の日々を過ごしたのち、慶長19年(1614)大坂城に入城。宿敵・徳川家康と大坂冬の陣・夏の陣を戦うことになる。
今回のドライブでは、信繁晩年の足跡を逆方向からたどることにした。まずは「大阪城」を訪ねたあと、車を南へと走らせて、冬の陣で信繁が砦を築いた「真田丸」跡地や、夏の陣で信繁が布陣した「茶臼山」、信繁討死の地とされる「安居神社」などを大坂の陣の激戦の記憶が残る場所を巡った。その後、安土桃山時代に一大貿易都市として栄えた堺市で「仁徳天皇陵古墳」などに立ち寄りながら、紀見トンネルを抜けて和歌山県へ。トンネルの上を通っている紀見峠は、信繁が九度山を脱出して大坂城に向かう際、山越えをしたルートだといわれている。「九度山」は紀ノ川とその支流・丹生川に囲まれた静かな町で、大河ドラマ『真田丸』と九度山町をPRする赤いのぼりが町内のそこかしこにはためいていた。

ドライブルート

大阪市中心部−(玉造筋など)−真田山−(谷町筋など)−天王寺−(あびこ筋、あべの筋、国道310号線、国道26号線など)−堺−(国道310号線、国道371号線、国道370号線など)−九度山−(国道370号線、国道480号線など)−高野山−大阪市中心部

全行程 約175km、今回行程 約30km

<赤いドライブルート付近のマーカーをクリックするとその項目にジャンプします>

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大阪城

大阪城公園南東の駐車場に車を停めて園内をしばらく歩き、玉造口に残る石垣の間を通って城内へ入っていくと、右手前方に天を衝くように高く聳える「大阪城」の天守閣がはじめて望めた。
かつてこの地は浄土真宗本願寺教団の拠点(石山本願寺)として大いに栄えたが、織田信長による焼き討ちに遭い、寺院や寺内町は炎上。天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉がその跡地で大規模な築城工事に着手して、豪壮な大坂城を完成させた。しかし、豊臣時代の大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣により焼失。江戸時代に入り、大坂を直轄領とした2代将軍徳川秀忠によって10年の歳月をかけて大天守や城郭が再建されたが、寛文5年(1665)の落雷で天守を失い、幕末の動乱によってそのほかの建物もことごとく灰燼に帰した。現在の天守は昭和6年(1931)に復興されたもので、その位置は徳川時代の大坂城に倣っているが、外観などは「大坂夏の陣図屏風」に描かれている豊臣時代の天守閣をモデルにしているという。

  • 玉造口から城内へ入ると、大阪城の天守閣が遠望できた

    玉造口から城内へ入ると、大阪城の天守閣が遠望できた

  • 秀吉、秀頼、秀長を祀る「豊國神社」。手前は秀吉像

    秀吉、秀頼、秀長を祀る「豊國神社」。
    手前は秀吉像

  • 本丸の正門にあたる「桜門」。明治時代の再建

    本丸の正門にあたる「桜門」。明治時代の再建

  • 桜門を入ってすぐのところにある「蛸石」は城内最大の巨石。表面積はおよそ36畳敷

    桜門を入ってすぐのところにある「蛸石」は城内最大の巨石。
    表面積はおよそ36畳敷

  • 現在の大阪城天守閣は昭和6年(1931)に再建されたもので、日本の復興天守第1号。高さは約54.8m

    現在の大阪城天守閣は昭和6年(1931)に再建されたもので、日本の復興天守第1号。高さは約54.8m

天守を飾る金色の鯱瓦と伏虎の原寸大レプリカ

天守を飾る金色の鯱瓦と伏虎の原寸大レプリカ

天守の内部は8階建てとなっており、3・4階では秀吉ゆかりの品々や大坂城にまつわる歴史資料、秀吉が作った組立式の黄金の茶室を再現した原寸大模型などを展示していた。5階は「大坂夏の陣図屏風の世界」として、真田信繁隊と松平忠直隊の激戦をミニチュア人形で再現していたり、大坂の陣ゆかりの地がパネルで紹介されており、このあとのドライブの参考になった。最上階の8階は展望台となっており、大阪の街をぐるりと見渡すことができた。

  •  「大坂夏の陣図屏風」の複製。画面には5,071人もの人物が描かれて、真田信繁や徳川家康など21名の両軍武将も特定できる

    「大坂夏の陣図屏風」の複製。画面には5,071人もの人物が描かれて、真田信繁や徳川家康など21名の両軍武将も特定できる

  •  「大坂夏の陣図屏風」内の真田信繁隊と松平忠直隊の激戦を307体のミニチュア人形で再現。多くの人がカメラを向けていた

    「大坂夏の陣図屏風」内の真田信繁隊と松平忠直隊の激戦を307体の
    ミニチュア人形で再現。多くの人がカメラを向けていた

  • 天守閣展望台から大阪の街を見渡す。左手に金の鯱瓦も見える

    天守閣展望台から大阪の街を見渡す。左手に金の鯱瓦も見える

山里丸に建つ「秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑

山里丸に建つ「秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑

天守から北側に一段下ったところは、かつて「山里丸」と呼ばれた一帯で、豊臣時代には山里の風情を保つ松林や桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていたという。大坂夏の陣での落城の際、淀殿と秀頼母子が自刃したのも山里丸だと伝えられ、一角に「秀頼・淀殿ら自刃の地」の石碑が建っていた。
/天守閣入館料 600円、TEL 06-6941-3044

真田丸跡

三光神社の境内に建つ「眞田幸村公之像」と「真田の抜け穴跡」

三光神社の境内に建つ「眞田幸村公之像」と「真田の抜け穴跡」

徳川方と豊臣方との戦がもはや避けられなくなった慶長19年(1614)10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した真田信繁は、城の南側に出丸(砦)を構築。これが「真田丸」で、大坂冬の陣において信繁はこの出丸を拠点に迫りくる徳川方の大軍を撃退し、その名を天下に轟かせた。
現在、真田丸跡地には寺院や学校、商店や住宅などが建てられて、かつての面影は失われているが、周辺にはゆかりの史跡が点在している。小高い丘陵に鎮座する「三光神社」の境内には、采配を高々と掲げる真田幸村(信繁)像が建つほか、大坂城まで地下道が通じていたと伝わる「真田の抜け穴」が残っている。

  • 三光神社の入口。境内の敷地が一段高い位置にあることがわかる

    三光神社の入口。境内の敷地が一段
    高い位置にあることがわかる

  • 三光神社の社殿

    三光神社の社殿

信繁が戦勝祈願をしたと伝わる鎌八幡

信繁が戦勝祈願をしたと伝わる鎌八幡

「心眼寺」は信繁・大助父子の菩提寺であり、境内には「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と刻まれた墓碑が建っていた。古くから人々の信仰を集めてきた「鎌八幡」には、信繁が霊木に鎌を打ちつけて、戦勝を祈念したという言い伝えが残っている。なお、各史跡には専用の駐車場がないため、車は近隣のパーキングに停めて徒歩で巡ろう。

  • 真田丸跡の一部である心眼寺は、信繁・大助父子の菩提寺。境内には信繁の墓碑があった

    真田丸跡の一部である心眼寺は、信繁・大助父子の
    菩提寺。境内には信繁の墓碑があった

  • 大阪明星学園のグランドの脇に建つ「真田丸顕彰碑」。今年(平成28年/2016)1月に建てられたばかりの新しい碑

    大阪明星学園のグランドの脇に建つ「真田丸顕彰碑」。
    今年(平成28年/2016)1月に建てられたばかりの新しい碑

茶臼山

冬の陣ののち一度は和議を結んだ徳川方と豊臣方だったが、翌慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣でふたたび戦火を交えることになる。
現在、天王寺公園内に位置する「茶臼山」は、夏の陣の際に真田信繁が陣を布いた場所。わずか3,500名の真田隊はここから出陣し、茶臼山周辺で松平忠直率いる越前勢1万5,000名と激突。高い戦意と捨て身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目がけて三度の攻撃を仕掛けて、あとわずかのところまで家康を追い詰めることになる。
茶臼山の東側は整備されたばかりのようで、真新しい駐車場と広場が広がっていた。茶臼山自体は標高26メートルのこんもりとした小山で、登り口のところにモニュメントがあったが、山頂部分には史跡を示すようなものは何も残されていなかった。

  • 登り口に建つ史跡碑。冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田信繁が陣を布いた

    登り口に建つ史跡碑。冬の陣では徳川家康が、
    夏の陣では真田信繁が陣を布いた

  • 茶臼山の頂上

    茶臼山の頂上

  • 夏の陣における天王寺口の戦いの布陣図を描いた看板

    夏の陣における天王寺口の戦いの布陣図を描いた看板

  • 茶臼山南の河底池の畔から茶臼山を眺める

    茶臼山南の河底池の畔から茶臼山を眺める

  • 谷町筋を通って天王寺駅方面へ。日本一の高さを誇る超高層ビル「あべのハルカス」が大きくそびえ立っていた

    谷町筋を通って天王寺駅方面へ。日本一の高さを誇る超高層ビル
    「あべのハルカス」が大きくそびえ立っていた

国道25号線側の安居神社の入口

国道25号線側の安居神社の入口

安居神社

茶臼山から徒歩で北へ向かい、国道25号線を渡ったすぐのところに「安居神社」はある。少彦名神と菅原道真を祀る古社で起源は不明だが、古くからこの地に社殿を構えていたと伝えられている。
大坂夏の陣において真田隊は家康の本陣まで迫ったものの、数に勝る越前勢の反撃に遭い、茶臼山から後退。激戦に疲弊した信繁は同神社で休息をとっていたが、越前兵によって発見されて討ち取られてしまったといわれている。
信繁最期の地である境内には、「眞田幸村戦死跡之碑」と「眞田幸村公之像」が建っていた。

  • 真田信繁の銅像。すべてをやりつくしたような達観した表情が印象的。その背後に安居神社の社殿が建つ

    真田信繁の銅像。すべてをやりつくしたような達観した表情が印象的。
    その背後に安居神社の社殿が建つ

  • 「眞田幸村戦死跡」の碑

    「眞田幸村戦死跡」の碑

四天王寺

天王寺というこのあたりの地名の由来でもある「四天王寺」にも足を延ばしてみた。
この寺の創建は古く、今から1,400余年前の推古元年(593年)までさかのぼる。かの聖徳太子が摂政皇太子として最初に建立した寺で、鎮護国家と衆生救済のために仏教の守護神である四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)を安置したのがはじまり。
南から北に向かって中門、五重塔、金堂、講堂という主要な建物が一直線に並び、それらを回廊が取り囲む独特の建築様式が特徴で、その「四天王寺式伽藍」は日本でもっとも古い伽藍配置様式である。
境内の総面積は3万3,000坪にもなり、中心伽藍のほか、聖徳太子の御霊を祀る「太子殿(聖霊院)」や500点余りの国宝・重要文化財を所蔵する「宝物館」など、数多くの建物が建っている。
/中心伽藍拝観料 300円、TEL 06-6771-0066

  • 中心伽藍の南端に位置する「中門(仁王門)」。現在の建物は、昭和38年(1963)に再建されたもの

    中心伽藍の南端に位置する「中門(仁王門)」。現在の建物は、昭和38年(1963)に再建されたもの

  • 中門の阿像、那羅延金剛力士。指の先まで緊張感がみなぎっている。高さは5m以上あり、国内2番目の大きさ

    中門の阿像、那羅延金剛力士。指の先まで緊張感がみなぎっている。
    高さは5m以上あり、国内2番目の大きさ

  • 中門の吽像、密迹金剛力士。阿像とともに、昭和38年(1963)に仏師の手によって造られた

    中門の吽像、密迹金剛力士。阿像とともに、
    昭和38年(1963)に仏師の手によって造られた

  • 五重塔(右)と金堂(左)。金堂には本尊の救世観世音菩薩が安置され、その四方に四天王像を祀っていた

    五重塔(右)と金堂(左)。金堂には本尊の救世観世音菩薩が安置され、その四方に四天王像を祀っていた

  • 亀の池に架かる石橋に組まれた石舞台。住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」のひとつとされる

    亀の池に架かる石橋に組まれた石舞台。住吉大社の石舞台、
    厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」のひとつとされる

さかい利晶の杜

堺市街に入り、国道26号線沿いを走っていると、全面ガラス張りの真新しい建物が目に飛び込んできた。看板には「さかい利晶の杜」とある。予定にはなかったが、気になったので立ち寄ってみることにした。

  • さかい利晶の杜は2015年3月にオープンしたばかり

    さかい利晶の杜は2015年3月にオープンしたばかり

  • 広々としたエントランスホール

    広々としたエントランスホール

「千利休茶の湯館」では、当時の茶道具などを展示

「千利休茶の湯館」では、当時の茶道具などを展示

「利晶」とは、堺出身の二大有名人、安土桃山時代に茶の湯を大成した千利休と、『みだれ髪』など数多くの詩歌集を世に送り出した与謝野晶子の名前を組み合わせた言葉。館内も1階は「千利休茶の湯館」、2階は「与謝野晶子記念館」という2人の足跡や業績を紹介するミュージアムになっていた。オープンしたのは昨年(2015年)3月とのこと。
茶の湯体験施設も併設しており、抹茶とお菓子をいただける立礼呈茶(予約不要/500円)や茶室お点前体験(予約制/500円)などで茶の湯の世界を気軽に楽しむことができる。

  • 安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の手による千利休の肖像画の複製

    安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の
    手による千利休の肖像画の複製

  •  「与謝野晶子記念館」では、著名な画家たちが手がけた色彩豊かな装幀の本を展示

    「与謝野晶子記念館」では、著名な画家たちが
    手がけた色彩豊かな装幀の本を展示

  • 晶子の言葉は、今も読む人の心を打つ

    晶子の言葉は、今も読む人の心を打つ

  • 夫・与謝野鉄幹が主宰した文芸誌「明星」の復刻版。「君死にたまふことなかれ」をはじめとした晶子の詩歌も明星に掲載された

    夫・与謝野鉄幹が主宰した文芸誌「明星」の復刻版。
    「君死にたまふことなかれ」をはじめとした
    晶子の詩歌も明星に掲載された

  • 表千家の「西江軒」、裏千家の「風露軒」、武者小路千家の「得知軒」と三千家の茶室が一堂に会する

    表千家の「西江軒」、裏千家の「風露軒」、武者小路千家の
    「得知軒」と三千家の茶室が一堂に会する

  • 千利休屋敷跡に残る椿井戸

    千利休屋敷跡に残る椿井戸

与謝野晶子の生家は、堺で菓子商駿河屋を営んでいた

与謝野晶子の生家は、堺で菓子商駿河屋を営んでいた

「さかい利晶の杜」の東側すぐのところには「千利休屋敷跡」があった。現在は井戸が残るのみだが、敷地内にある大正時代に建てられた石碑には「茶室及椿井現存」と刻まれているので、かつては茶室も残っていたのかもしれない。椿井という名は、井戸の水を澄ますために椿の炭を底に沈めたことに由来するそう。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだと伝わっている。
また、国道26号線を渡って北へ少し歩いた歩道脇には「与謝野晶子生家跡」の碑と歌碑が建っていた。
/入館料 300円、TEL 072-260-4386

仁徳天皇陵古墳

国道26号線から県道197号線、通称「御陵通」に入って5分ほど走ると、左手に木々に覆われて鬱蒼とした丘陵が見えてくる。地上からは全貌を把握できないが、その丘陵が日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵古墳」である。その名が示すように第16代仁徳天皇の陵だといわれており、5世紀中頃の築造だと考えられている。
墳丘の全長は486mで、まわりを取り囲む濠を含めた南北の長さは840m、東西の長さは654mもあり、周囲をぐるりと回った距離は約2.7kmにもなる。ある試算によれば、これだけ大規模な古墳を造るのには、1日最大2,000人が従事して15年8ヵ月の歳月が必要で、延べ680万人もの人々が従事したとされている。

  • 仁徳天皇陵古墳の拝所

    仁徳天皇陵古墳の拝所

この一帯にはかつて100基を超える古墳が造られたといわれ、現在でも仁徳天皇陵古墳のほか、「反正天皇陵古墳」「履中天皇陵古墳」など大小44基の古墳が現存しており、地名から「百舌鳥古墳群」と呼ばれている。

  • 隣接する大仙公園内にも小さな古墳が点在していた。正面の小山は、孫太夫山古墳

    隣接する大仙公園内にも小さな古墳が点在していた。
    正面の小山は、孫太夫山古墳

  • 大仙公園内にある堺市博物館

    大仙公園内にある堺市博物館

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OSAKA-INFO 大阪観光情報
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大阪城天守閣
大阪城天守閣にある博物館の展示やイベントのほか、城の歴史、史跡公園のみどころなどを紹介している。

記事・写真:谷山宏典 取材:2016年9月

  • ※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。