ニッポンレンタカーHOME > 旅のお役立ちガイド > ドライブガイド > 新潟・良寛さんと出雲崎

新潟・良寛さんと出雲崎

ドライブライン

弥彦神社本殿 佐渡を望む海岸線に沿った越後出雲崎は、江戸時代佐渡からの金銀の陸揚げ港として代官所が置かれた幕府直轄地(天領)であった。かつての北国街道の宿場だったこの町は、いまも「妻入り」の街並みが約4kmも続く。
江戸時代には越後一の人口密度を誇ったといわれる街道沿いの家並みは、禅僧であり歌人、詩人、書家でもあった良寛和尚の生誕地でもある。自然を愛し、子供を慈しみ多くの逸話を残した聖僧は「良寛さん」としていまも日本人の心に生き続けている。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
新潟市−(北陸自動車道)−中之島見付IC−(国道352号線)−出雲崎−(国道116号線)−弥彦神社−(国道460号線)−巻町−(国道116号線)−新潟市
行程 約130km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>



●越後出雲崎・天領の里

軒を寄せ合うように建つ出雲崎の民家
軒を寄せ合うように建つ出雲崎の民家
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

道の駅には記念館、時代館も併設されている
道の駅には記念館、時代館も
併設されている


佐渡の島影を追うように走る国道402号線沿いにある「道の駅・天領の里」で車を駐めて一休み。道の駅には、江戸幕府直轄の栄華を再現した「天領出雲崎・時代館」がある。入り口には出雲崎代官所の名称が付けられている。
館内には幕府の財政を支えた佐渡金銀を運ぶ港であったことや、北前船の寄港地などで重要な港町として栄えた出雲崎特有の街並みが再現されている。また天領時代の商家や職人などの生活が体験できる。
館内には、他にも石油記念館があり、機械堀井戸、使用された道具や石油化学製品の製造工程などが展示されている。

出雲崎は日本における近代石油産業発祥の地であり、古代より海面に石油が浮遊していたという。明治24年(1891)には機械による深層採掘に成功、以来この付近の油田を尼瀬油田といい、昭和60年(1985)まで採油が行われていた。ここは世界初の海底油田でもある。
天領の里の敷地には、承久の乱(1221)で敗北した順徳上皇(天皇)が24歳で佐渡に流され22年後に崩御された後、遺骸が京都大原へと移される時、佐渡から上陸した碑も建つ。
/入館料 400円、TEL 0258-78-4000

佐渡金山の金は出雲崎に運ばれた
佐渡金山の金は出雲崎に運ばれた
佐渡で自決された順徳天皇のご遺体上陸地
佐渡で自決された順徳天皇の
ご遺体上陸地


●久寛荘

道の駅より数km、国道352号線を柏崎方面に向かった道沿いに豪壮な長屋門を構えた家がある。ここは日本石油(現新日本石油)初代社長である内藤久寛の生家だ。
内藤家は江戸時代より廻船業を営んでいた。当時は庶民である内藤家が、上級武士や大名にしか許されなかった「長屋門」を建てられたのは、諸大名とも深いつながりを持つ実力があったからだという。
明治天皇が北陸を行幸されたとき、昼食に立ち寄られたという部屋が残る。現在は群馬県多野藤岡広域市町村の保養所になっている。
長屋門を持つ内藤家
長屋門を持つ内藤家
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


●妻入りの街並み

「妻入り」とは、切り妻造りの妻の方を正面とし、出入り口を妻入りに設けた家のこと。人口密度が高かった江戸時代の出雲崎は、間口が狭く奥行きの長い妻入り造りの形式がとられていた。当時は間口の広さで税金が掛けられていたため、通りに面した多くの家の間口は二間または三間半(一間は180cm)だ。
道の駅のある国道沿いから平行して昔の北国街道が走る。この街道に沿って尼瀬・諏訪本町・伊勢町・稲荷町・岩船町・住吉町・石井町・羽黒町・鳴滝町・木折町・井鼻町と11の町の妻入りの街並みが、現在もなお4km近く続いているのは、全国でも珍しい。
4kmも続く街並み
4kmも続く街並み

妻入り会館。観光案内もしてくれる
妻入り会館。観光案内もしてくれる
地震で海中から出てきた縄文時代の古木(妻入会館)
地震で海中から出てきた縄文時代の
古木(妻入会館)


細い街道に沿う街並みには、駐車場はほとんどない。道の駅に車を駐めての徒歩となる。4kmもの道のりは長いが、昔ながらの街並みのなかには良寛の生誕地、ゆかりの寺、そして芭蕉の句碑や徳川将軍より婦(嫁)の鑑と褒められた女性の物語から堀部安兵衛の居住跡まである。良寛和尚終焉の地は20kmほど離れた和島にある。
町のほぼ中心部の稲荷町には「北国街道妻入り会館」がある。廻船問屋だった家が復元され、案内所になっている。立ち寄るとお茶を勧められ、尋ねると町の昔話も聞くことができる。

松尾芭蕉像。荒海や…の歌をここで詠んだ
松尾芭蕉像。荒海や…の歌をここで詠んだ
堀部安兵衛の杯があるという養泉寺
堀部安兵衛の杯があるという養泉寺

●良寛堂(良寛生誕地)

良寛は宝暦8年(1758)出雲崎の名主橘屋山本家に生まれた。幼名は栄蔵といい、父は以南(与板出身)母は秀子(或いはおのぶ、佐渡相川出身)という。18歳で尼瀬の光照寺で剃髪して22歳で良寛と名乗り、玉島(岡山県倉敷市)円通寺に赴き国仙和尚に師事し、諸国を廻り修行。寛政8年(1796)39歳で越後に戻ったが、出雲崎中山の西照坊、寺泊の密蔵院などいくつかの寺を転々とし、あえて寺も檀家も持たず貧しい托鉢僧であった。自然を愛し、子供たちと手まりに興じる日々、清貧の思想を貫き通した心優しくおおらかな人柄であった。
生家屋敷跡にある良寛堂は、大正11年に良寛の母の国佐渡島を背景に建てられた。堂が日本海に浮かんで見えるように設計されているという。

良寛の生家、橘家菩提寺
良寛の生家、橘家菩提寺
良賜a生の地、橘家跡、左は良雌ー
良賜a生の地、橘家跡、左は良雌ー

良雌ー。晴れると背後に佐渡が見える
良雌ー。晴れると背後に佐渡が見える
良獅ェ常に持っていたという石地蔵。堂内石碑にはめ込まれている
良獅ェ常に持っていたという石地蔵。
堂内石碑にはめ込まれている


●良寛記念館

良寛堂のある石井町から長岡方面へ抜ける国道352号線を少し山へ向かって走り、記念館への入り口の表示に従って右折すると茅葺き屋根の門に出合う。良寛生誕200年を記念して昭和40年(1965)にオープン。庵のような入り口だが、門の中は広い敷地に白く清楚な平屋の近代建築の建物がある。これが記念館。館内には良寛の遺墨、遺品などの他、故・安田靫彦画伯による良寛肖像及び多くの書が展示されている。
庭園は石油王と言われた中野貫一(明治7年、手堀りで石油の採掘をはじめ、生地の新潟蒲原地方を中心に油田開発した人物で、後に中央石油・中野興業社長)邸から移した重厚な石燈籠や庭石を配し、桜、藤、萩など四季折々の花が植えられている。
記念館の隣りの丘の上には「良寛と夕日の丘公園」があり、良寛さんと子供達の遊ぶ像がある。ここからは、眼下に良寛堂、出雲崎港、妻入りの街並み、そして右手に弥彦山、遠くに佐渡島と、眺めは新潟景勝百選の中でも一位である。
/入館料 400円、TEL 0258-78-2370

良寛記念館
良寛記念館
巨大な硅化木。2000万年前のランダイスギ(良寛記念公園)
巨大な硅化木。2000万年前の
ランダイスギ(良寛記念公園)


子供時代を推測して作られた良寛像
子供時代を推測して作られた良寛像
良寛さんと子供の像
良寛さんと子供の像

●良寛ゆかりの寺

住吉町には良寛生家の菩提寺である円明院、伊勢町には良寛が18歳で剃髪した光照寺がある。22歳までこの寺で禅の修行し、備中玉島円通寺に赴いた。18歳で出家したその理由は、家が名主だったことから盗賊の処刑に立ち会い、人の世のむごさ、命の儚さを感じたからだと伝えられている。

良寛は光照寺で剃髪した
良寛は光照寺で剃髪した
良寛はこの寺で剃髪した
良寛はこの寺で剃髪した

光照寺の近くの寺には「孝婦ゆりの碑」が建つ。碑の脇に建つ説明板によると「ゆりは隣村和島村の農家に生まれ、長じて出雲崎の出稼大工、作太夫の妻となった。よく婦道を守り、病弱な姑によく仕えて至孝であった。そのことが人々に伝わり、寛保2年(1742)徳川将軍よりその行状を褒められた」とあった。女性の鑑という昔のお話である。江戸時代、将軍から「お褒めを戴いた」ことは、出雲崎の大事件だったことだろう。
将軍からお褒めを受けた孝婦ゆりの碑
将軍からお褒めを受けた孝婦ゆりの碑

●良寛の里わしま

長岡市(旧和島村)に「道の駅」がある。国道116号線沿いに、休憩所や食堂などとともに地元の物産などを扱う、どこにでもある普通の道の駅だが、建物が200年前の古民家を移築した趣きのあるのが特徴。さらに道の駅の建物より少し離れた場所には、良寛の書を展示した「良寛美術館」、高村光太郎の作品を展示する「菊池記念館」を核にした美術館ゾーンがあり、全体を「良寛の里わしま」と呼ぶ。
/入館料 共通券 800円、TEL 0258-41-8110

和島は良寛終焉の地
和島は良寛終焉の地
良獅フ里美術館
良獅フ里美術館

●出逢いの庵

良寛は69歳のとき、国上山を下り、和島の木村家離れに移り庵としていた。晩年になってこの地で、はじめて一人の女性と運命の出逢いがあった。良寛70歳、良寛を慕って度々庵を訪れた貞心尼は30歳。どういう関係だったか幾つもの説があるが、40歳の年齢差を超えて、親密な交流だったようだ。
「夢の世に かつまどろみて 夢もまた 語るも夢 それがまにまに」良寛
「君にかく 相見ることの 嬉しさも 未ださめやらぬ夢かとぞ思う」貞心尼
神様は良寛の精進のご褒美ではなかったかとさえ伝えられている。

●良寛終焉の地と墓

木村家跡地には、庵があったとされる場所に碑が建っている。奥には木村家の菩提寺の隆泉寺があり、寺の境内には托鉢姿の良寛像が桜の木の下にある。訪れたときには、ちょうど桜が散り始めたときだった。良寛の立派な墓石は本堂左手の奥にある。看取ったのは貞心尼だったという。
良寛辞世の句とされる一つにはこうある。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
晩年、故郷に帰った良寛和尚はこの庵で終焉を迎えた
晩年、故郷に帰った良寛和尚は
この庵で終焉を迎えた


ヘ泉寺境内の良寛像
ヘ泉寺境内の良寛像
良寛様の墓石
良寛様の墓石

●弥彦神社

越後平野の中央に聳える弥彦山の麓に鎮座する神社で、古くから「おやひこさま」と呼ばれ人々の心のふるさととして、また魂のよりどころとして親しまれてきた。境内は鬱蒼とした樹木に覆われている。老杉や古い欅の巨木の中の社は「伊夜比古おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る」と万葉人にも詩われている。
御祭神は天香山命「アメノカゴヤマノミコト」で神武天皇の命を受け、越後の平定とともに、人々に海水から塩をつくる技術をはじめ漁、稲作などを教えたとのこと。
本殿は明治の大火で焼失し、大正5年(1916)に再建されたが平成の大修営事業で、屋根の葺き替え、祈祷殿から社務所などを新築、平成13年(2001)に竣工した。

弥彦神社本殿
弥彦神社本殿
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

弥彦神社への石段
弥彦神社への石段

弥彦山の展望エレベーター。遠くに佐渡島
弥彦山の展望エレベーター。
遠くに佐渡島
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

境内で見かけたひとこま
境内で見かけたひとこま

弥彦山の標高634mの山頂近くまではロープウェイが約5分で観光客を運んでくれる。車では「弥彦山スカイライン」で行くことができる。駐車場からの眺めもよいが、これより山頂にはケーブルで上る。駐車場から高さ100mの回転昇降パノラマタワーもある。
さらに弥彦神社の奥社へは、登り徒歩約20分だ。佐渡を望む日本海はもとより広大な越後平野を見渡す大パノラマだ。天香山命を祀った奧舎が木々に覆われて鎮座する。
/ロープウェイ往復料金 1,300円
  TEL 0256-94-4141
山頂に祀られた天香山命(あめのかごやまのみこと)
山頂に祀られた天香山命
(あめのかごやまのみこと)


●米百俵の碑

戊辰戦争で敗れた長岡藩に三根山藩(新潟県巻町)から百俵の米が贈られた。この米の分配を迫る藩士たちに「百俵の米も、食えばたちまちになくなる。教育に使えば明日の一万俵、百万俵となる」と小林虎三郎は藩を説得し、この米を売って教育に充てた。有名な「米百俵」の話である。
弥彦神社から新潟市へ戻る途中、見渡す限りの田んぼの中を走る県道で、長岡藩に贈った米の産地を偶然に見付け、秋には黄金色に実る稲穂の波を思い浮かべながら、国道116号線に合流した。
米百俵の美談、誕生の地(岩室村)
米百俵の美談、誕生の地(岩室村)



○ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

○新潟県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、新潟県内の営業所リストをご覧いただけます。


出雲崎町観光協会
良寛にまつわる観光スポットをはじめ、出雲崎の祭事・イベント情報や宿泊施設、土産物などを掲載。
弥彦観光協会
弥彦神社など弥彦村のみどころや弥彦温泉の旅館、立ち寄り湯の案内、観光写真データベースも見られる。

取材:2010年4月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。