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佐渡島一周ドライブ(1)

ドライブライン

金を取り出す工場の再現 佐渡島は新潟沖約35km、日本海に浮かぶ周囲約265kmで東京23区の約1.5倍、沖縄本島の次に大きい島でもある。古くは、弥生時代の米作り跡や住居などの跡も発見されているが、歴史上に登場するのは大宝2年(702)、大化改新には「佐渡国」として独立し、真野海岸には国府・国分寺も置かれていた。
その約20年後には“遠流(おんる)”の島として定められ順徳上皇をはじめ京極為兼、日蓮など多くの歴史上の人物が流された。やがて金山が開発され、江戸幕府の金蔵(かなぐら)の直轄領として発展、今はこれらが流刑の遺跡とともに、佐渡観光の中心となっている。

佐渡の魅力は、史跡ばかりではない。1,172mの金北山から多彩な海の景観が楽しめる。その大部分は「佐渡弥彦山国定公園」に指定されている。さらに島の周囲の魚礁から揚がる豊富な魚介類は、旅人の食欲を満たす。
平成16年(2004)に両津、相川、佐和田、畑野など10市町村が合併、現在は、島全土が佐渡市となった。現在人口7万人弱の島である。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
新潟港−両津港−(国道350号線)−河原田本町−(県道45号線)−七浦海岸−相川−佐渡金山
行程 約60km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●両津港

新潟−両津航路はジェットフォイル(全没翼型水中翼船)で約1時間、フェリー(約12,500トン)では2時間40分。2航路で1日15往復程度、この内フェリーは約三分の一。季節や祝日などで連休の多い月には増減発される。
全長130mを超える大きなフェリーが発着岸する港は、広い駐車場とチケット売り場や待合室、土産物屋などが入る2階建ての建物がある。ニッポンレンタカーの案内所も、この建物の1階にある。

おけさ灯台
おけさ灯台
両津港のフェリー
両津港のフェリー

●七浦海岸へ

両津港を出て、真野湾に向う。佐渡島の地図を広げてみると、島を半分に分けるように狭まったところが、国道350号線で両津湾と真野湾を結ぶ15kmの距離だ。
この間、国道から少し離れたところには重要文化財の寺院や古い住宅などがあるが、この地域の遺跡や史跡は、次回に譲って先を急いだ。真野湾とぶつかった国道から県道45号線を辿り、七浦海岸へ。
長手岬から春日岬まで、約10kmも緩やかに弧を描きながら砂浜と岩礁が続く海岸線を七浦海岸と呼ぶ。さまざまな形の岩が浮かび、景勝地の一つである。なかでも夫婦岩と名付けられた2つの岩と、それを囲むように大小無数の岩が散らばる青い海は実に絵になる風景だ。またサンセット海岸としても人気のスポットである。

七浦海岸
七浦海岸
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七浦海岸の夫婦岩
七浦海岸の夫婦岩

このコースのハイライトは“夫婦岩”付近で、大型バスも駐まれる駐車場があり、ドライブインもある。ドライブインと通りを挟んだ斜め前には小さな塩の製造所がある。
海水を汲み上げ、廃材を薪に大窯で煮詰めて塩を作るという昔ながらの製造法だ。その工程を見たいと尋ねると、気軽に承諾してくれた。
竃(かまど)の火を絶やさず、燃えたぎる竃と吹き上げる蒸気の中で2人の男が立ち働いていた。彼らの自慢は、ミネラル豊富な天然塩と、それに佐渡特産の海藻をまぜた黒い塩である。天ぷらやサラダなどに利用されている。

塩工場
塩工場
湯気と熱気がこもる
湯気と熱気がこもる

●相川の町と金山

慶長6年(1601)金山開発に伴い、現在の相川地区は徳川幕府直轄の天領となり、慶長8年(1603)には佐渡奉行所が置かれた。その金山で栄えた相川は、佐渡西北部の山裾に広がる坂の多い街で、現在も金山繁栄のころの面影を残し、佐渡観光の柱にもなっている。

金工場は一部が復元されている
金工場は一部が復元されている
金を取り出す工場の再現
金を取り出す工場の再現
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寒村にすぎなかった相川は、金山開発に伴い、全国から山師、商人、労働者などが集まり、最盛期には、この狭い土地に5万人もの人があふれていたという。
古い町の作りは、海岸通りの佐渡一周線(県道45号線)から坂の上へと続く。狭い道や多くの階段などが入り組んでいるので、車は新しい道とともにできた「佐渡奉行所」前の駐車場へ入れ徒歩で巡りたい。

●佐渡奉行所

慶長8年(1603)に建てられたが、幾度となく大火に見舞われ、何度か焼失したが安政6年(1859)の再建から明治の廃藩とともに、その役目は終えた。その後は佐渡郡役所など行政庁として使用していたが、昭和17年(1942)の火災で江戸時代の建物は焼失した。
平成6年(1994)発掘調査を経て、平成12年(2000)に安政6年当時の建築を復元。館内の説明員によると「観光目的で復元されたのではなく、あくまでも佐渡奉行所を当時の建築様式を伝えるため」の復元という。現在では入手困難な太く長い木材や一枚板などの材料とともに、宮大工による建築は大変なものである。国の文化庁によるもので、国費で復元された「佐渡奉行所」は後世に佐渡の歴史を伝えるものである。

佐渡奉行所。江戸時代の建物が復元されている
佐渡奉行所。江戸時代の建物が復元されている
奉行所内に展示された鉛板。金の精製に使われた
奉行所内に展示された鉛板。
金の精製に使われた


奉行所の敷地内には、金銀を精製する工場跡も併設されている。金を余すことなく採る最後の細かい仕事が、館内案内者によって説明される。
/入館料 500円、TEL 0259-74-2201

●時鐘と鐘楼

奉行所から徒歩3分ほどのところにある時を告げる鐘。佐渡で産出された銅で造られた鐘は、高さ1.5m、径2.6mで、江戸中期から明治初期まで時を知らせていた。現在も街の有志によって毎朝7時と夕方5時(夏は6時)に鐘が撞かれる。

時鐘。古い街の急坂の上にある
時鐘。古い街の急坂の上にある
奉行所へ続く西坂。罪人もこの坂を歩いた
奉行所へ続く西坂。罪人もこの坂を歩いた

罪人の処刑場跡
罪人の処刑場跡
刑場跡にはお堂が建てられていた
刑場跡にはお堂が建てられていた

鐘楼の下には石段の続いた長坂が海に向かって下る。その長坂と奉行所から続く西坂の合流地点は、鉱山時代(慶長11年から明治に至るまでの間)の牢屋であり、刑場もあった。現在観光地の多くでは、こうした負の遺産を隠す傾向にあるが、ここでは「牢屋跡」として表示され、さらに首切り場としての説明板まである。そして処刑者無縁法界供養菩提塔が建つ。
華やかな歴史の裏には悲惨な事実は必ず存在するのだが、負の部分をかくしたがる現代で、なお負の遺産と捉えて、後世に残そうとする佐渡の観光協会の態度にうなずけるものがあった。遠野の「デンデラ野」と共に感銘を受けた。

●相川郷土博物館と北沢選鉱場跡

奉行所跡へ戻り、自動車道を下るとコンクリート造りの廃墟のような工場跡が見える。昭和初期には多くの機械が導入され、最高の産金高を記録した東洋一といわれる浮遊選鉱場の跡だ。
いまは不気味な姿をさらしている工場跡の下には、郷土博物館の木造建物がある。明治12年(1879)、佐渡金山は皇室財産となり宮内省の管理下となった。その時、御料局佐渡支庁が置かれた建物で、国指定史跡になっている。

相川郷土博物館
相川郷土博物館
選鉱場跡。東洋最大の施設だった
選鉱場跡。東洋最大の施設だった
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●大安寺

石畳の坂を上って山門へ。初代佐渡奉行の大久保長安が開いた寺。
大久保の大と長安の安の文字から大安寺と名前が付けられ、長安が自分の死後の冥福を祈って建立した逆修塔と佐渡の国検地を行った川村彦左衛門を供養して建てられた五輪塔がある。どちらも国指定史跡。
大安寺山門
大安寺山門

大久保長安の五輪塔
大久保長安の五輪塔
河村彦左衛門を供養する五輪塔
河村彦左衛門を供養する五輪塔

●寺町

坂の町、旧相川の山の上にはいくつもの寺院が並ぶ。南沢通りの長い階段の上には妙円寺の赤い山門を見上げる。境内敷地は初期の佐渡金銀山を代表する山師(鉱山技師)味方孫太夫の邸宅跡でもある。いまは階段の上は静寂に包まれ、訪れる人も稀なさびれた本堂がひっそりと佇んでいた。
本堂前よりさらに苔むした古い階段を上り、山を回り込むと味方孫太夫一族の巨大な五輪塔がある「法輪寺」だ。並びには徳川秀忠の勘定頭として幕府財政の会計を担当し、佐渡金山を預けられた伊丹康勝の五輪塔をはじめ江戸末期の著名人の墓の他、狭いながら池のある美しい庭園がある「法然寺」と、元禄期の奉行等の墓のある本典寺と続く。現在はどの寺も、ひっそりとして人影もなかった。

妙円寺。すっかり寂れ住職もいなかった
妙円寺。すっかり寂れ住職もいなかった
法然寺の庭園
法然寺の庭園
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坑夫、人足供養塔(妙円寺)
坑夫、人足供養塔(妙円寺)
金山奉行伊丹播磨守康勝を供養した五輪塔。相川で最大
金山奉行伊丹播磨守康勝を
供養した五輪塔。相川で最大


法輪寺。赤く塗られた本堂が見える
法輪寺。赤く塗られた本堂が見える
江戸から連れてこられた“水替無宿”たちが寄進した大灯籠(法輪寺)
江戸から連れてこられた“水替無宿”
たちが寄進した大灯籠(法輪寺)


●無宿人の墓

佐渡観光の超目玉である「佐渡金山」への途中、見過ごしそうな、小さな表示板「無宿人の墓」の文字が目にとまった。道路際にある狭いスペースに車を駐めて竹林や樹林の薄暗い小径を200mほど上ると大きな墓石や供養塔がある。
嘉永6年(1853)、坑内で死んだ28人の生国、名前、年齢、戒名を刻んだ碑があった。彼らの多くは坑内の水を汲み上げる人足で、江戸、大阪、長崎の天領から連れてこられた1,800余人の中の一部の人たちだ。彼らは失職、流浪の果てに幕府の治安対策で捉えられ、強制連行された若者である。多くは赦免の夢を見つつも、ここ相川で死んでいったという。
近くにある万照寺には、慶安4年(1651)幕府転覆をはかった「慶安の変」で由比正雪の片腕になった大岡源右衛門の息子源三郎の墓がある。

無宿人の墓への道はうっそうとした竹林を上る
無宿人の墓への道はうっそうとした竹林を上る
無宿人28人の生国、名前、年齢などが刻まれた碑(中央)、左は江戸の無宿人供養塔
無宿人28人の生国、名前、年齢などが
刻まれた碑(中央)、左は江戸の
無宿人供養塔


無宿人の墓への標示
無宿人の墓への標示
かつては多くの人が住んでいたが、今は森に還った。次助町とある
かつては多くの人が住んで
いたが、今は森に還った。
次助町とある

幕府転覆を狙った慶安の変、に荷担し佐渡へ流されたた旗本・大岡源右衛門、源三郎の墓
幕府転覆を狙った慶安の変に
荷担し佐渡へ流された旗本・
大岡源右衛門、源三郎の墓


●佐渡金山

徳川幕府300年の財政を支えた、とさえいわれた佐渡の金山は、総産出量が78トンとも84トンともいわれている。これは閉山された平成元年(1989)までの388年間でのこと。江戸時代は金に伴い銀も2,330トンもの産出量を誇った。
ちなみに佐渡は日本の金山の中では2番目の生産量だ。一番は現在も操業中の鹿児島県菱刈鉱山で今までの産出量が113トン、まだ有望な金脈があるといわれている。
重さ12.5キロの金塊
重さ12.5キロの金塊

金山観光の中心。坑道入り口
金山観光の中心。坑道入り口
坑道内に作られた江戸の掘削状況
坑道内に作られた江戸の掘削状況

佐渡金山の鉱脈群は東西約3,000m、南北約600mの範囲に分布しており、坑道の総延長は約400kmに及ぶ。その坑道の断面図を見ると、まるで地中に迷路のように堀った蟻の巣のようだ。
ここで見学できるのは、「宗太夫坑コース」と「道遊坑コース」の2つで、前者の山師の宗太夫坑は、江戸初期から開発された富坑の一つの採掘跡で、坑道の中には働く当時の労働者たちの姿を等身大の人形で再現している。坑内作業がどんなに過酷なものであったかが分かる。
後者の道遊坑コースは、江戸末期から明治、大正、昭和にかけて、英国人技師による近代化された坑道や機械を見学することができる。また佐渡の金山発見の発端となった主要鉱脈「道遊脈」の発掘跡である、国指定史跡「道遊の割戸」を間近に覗くことができる。遠くからみると山が2つに割られているが、いかに激しく掘ったかも推測できる。
/入場料 宗太夫坑のみ 800円、道遊坑との共通は1,200円、TEL 0259-74-2389

「道遊の割戸」。山を切り裂き金脈を掘った
「道遊の割戸」。山を切り裂き金脈を掘った
割戸。上部は江戸時代、トンネルは明治のもの
割戸。上部は江戸時代、
トンネルは明治のもの




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佐渡観光協会
「佐渡ドライヴのススメ」が紹介されているほか、名所・旧跡や自然景観、宿泊施設などを検索できる。
佐渡が島(佐渡汽船)
フェリーの乗り場案内や運賃表、時刻表などのほか、デジタルパンフレット「佐渡さんぽ」が見られる。

取材:2009年9月