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坂本龍馬・長崎編(2)

ドライブライン

出島の模型。出島内に作られている 龍馬がはじめて長崎を訪れる5年前、安政6年(1859)幕府は200年以上続いた鎖国を撤廃した。それに伴い、箱館(現 函館)、横浜、長崎を開港。同時に欧米列強との交易がはじまり、武器や艦船などの購入までできるようになった。
イギリス領事館や、大浦の外国人居留地には多くの外国人が住み、変貌する長崎で、龍馬とその仲間たちは日本の未来を夢見、大きく成長を遂げていった。そんな当時の面影を残す場所や建物を訪ね、激動の時代に思いを馳せる。


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ドライブライン

<コース>
長崎市内
行程 約30km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●総合観光案内所

長崎駅構内に、龍馬伝にあやかった俄観光案内所ができていた。ここで無料でもらえる60ページにも及ぶ「長崎ノ心・龍馬ノ夢」と題した、大河ドラマ「龍馬伝」長崎県推進協会発行の雑誌がある。これ一冊に、龍馬の足跡から対馬、壱岐、五島列島まで長崎県全土の歴史や観光地が紹介されている。
/問い合わせ 長崎国際観光コンベンション協会、TEL 095-823-7423

長崎駅には龍馬観光案内所が出現
長崎駅には龍馬観光案内所が出現
夜の長崎駅前
夜の長崎駅前

●崇福寺

「龍馬通り」を下ると、「寺町通り」といわれ、山裾沿いに10余りを数える寺が並ぶ通りに出る。石垣に覆われた大小の寺はそれぞれ由緒ある古い寺だが、なかでも「赤寺」、「南京寺」として親しまれている崇福寺は、隠元隆K禅師がインゲン豆を日本に伝えた寺で、インゲン豆の発祥地でもある。また日本最古の石橋・眼鏡橋を架設したのもこの寺の住職であった高僧・隠元である。
山裾に並ぶ寺の多くは唐寺で、中国・明の商人が長崎に渡来したころ、航海の安全を祈願して建立されたが、慶長17年(1612)幕府のキリスト教廃止令により、中国人はキリスト教徒の疑いを避けるために次々と寺院を建てた。本堂は国の重要文化財だ。

寺町通り。苔むした寺の石積みが続く
寺町通り。苔むした寺の石積みが続く
案内板はわかりやすい
案内板はわかりやすい

崇福寺はこれらの寺を通り過ぎた一番高いところにある赤い竜宮門が目印だ。寛永6年(1629)長崎在住の中国福建省の人たちによって建てられた唐寺。九州に建造物の国宝は全部で6つ、と数は少ない。その内1つは熊本県、2つは大分県で、3つが長崎にある。なかでも崇福寺には2つあり、もう1つは大浦天主堂だ。
崇福寺にはさらに20余りの重要文化財に指定された建物や像などもあるのだから驚きの寺だ。国の重要文化財でもある竜宮門をくぐると、受付がある。
竜宮城のような三門が見えたら崇福寺
竜宮城のような三門が見えたら崇福寺
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崇福寺・第一峰門(国宝)
崇福寺・第一峰門(国宝)
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崇福寺第一峰門。組木の軒裏が見事
崇福寺第一峰門。組木の軒裏が見事

受付を出て階段上にある門は「第一峰門」。国宝である。門の特徴は複雑な組木の軒裏だ。平垂木を放射状に割付けた扇垂木に鼻隠板打ち(はなかくしいたうち)に、極彩色模様が施されていた。中国華南地方に見られるが、日本ではここでしか観ることができない。2つ目の国宝は本尊に釈迦を祀る大雄宝殿で、正保3年(1646)に建立された長崎に現存する最古の建物。その他、海上守護神である媽姐像や三国志の英雄・関羽像が安置されている。

第1峰門扉の裏は見事な彫り物
第1峰門扉の裏は見事な彫り物
大雄宝殿。第1峰門とともに国宝
大雄宝殿。第1峰門とともに国宝

境内には大釜がある。延宝8年(1680)に諸国が不作に見舞われ、米穀不足になり、長崎も餓死者がでた。そこで第2代住職であった唐僧が天和2年(1682)に鋳工を鍛冶や町の鋳物師に依頼して約2ヶ月がかりで大釜を造った。僧たちは托鉢や富商の喜捨などで、この釜で粥を炊き施しをした。多い日には1日3,000〜5,000人の人々が施しを受け飢餓から救われたという。
/拝観料 300円、TEL 095-823-2645

媽姐(まそ)堂。航海安全を願い媽姐像を奉安した
媽姐(まそ)堂。航海安全を願い
媽姐像を奉安した

大釜。餓死者を防ぐため、多い日には3,000〜5,000人分の米を炊いた
大釜。餓死者を防ぐため、多い日には
3,000〜5,000人分の米を炊いた


●長崎新地中華街

江戸時代の中期、最初は中国船の積み荷は五島町や大黒町の海岸の蔵に収めていたが、大火で荷蔵が焼失したため、海を埋め立て中国貿易品の倉庫をつくった。やがて出島に住むオランダ人同様、中国人についても居留地が設けられ、このあたりを中国人町とした。当時、人口約7万の長崎に1万人余りの中国人がいたというから大変な数だった。
高い塀を巡らせ、出入りは出島同様厳しい制約があったが、オランダ居住地ほどの厳しさではなかったという。
明治維新後、唐人屋敷とともに居留地が廃止されたため、在留中国人たちは港に近い埋め立て地に中国人街をつくった。中華街の四方に立つ極彩色な中華門は、横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込め、本場中国から職人を招き資料を取り寄せて建造したもの。長崎チャンポンが看板の中国料理も所変われば品変わる、で関東以北の人の味覚には馴染みの薄い異質なもののように思われる。おいしいか否か試してみよう。

長崎新地の中華街
長崎新地の中華街
中華街の食べ物は庶民的なものだった
中華街の食べ物は庶民的なものだった

町中にも龍馬館
町中にも龍馬館
蜘蛛もびっくりの電線、電話線(中華街近くで)
蜘蛛もびっくりの電線、電話線
(中華街近くで)


●史跡料亭・花月

江戸時代、江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大名所と云われた丸山に、今も当時のままの姿を残す料亭。江戸時代に丸山町と寄合町に遊郭が集められ、この2つの町が『丸山』と呼ばれていた。丸山随一の遊郭引田屋の庭園にあった別棟、花月楼は、当時オランダ人や唐人たちの丸山見物には欠かせない場所であり、日本の文人墨客も多く訪れたという。

花月の玄関
花月の玄関
龍馬たちは中では飲食、議論もした
龍馬たちは中では飲食、議論もした

幕末には、維新の志士たちが花月に出入りしていた。龍馬もそのひとりで、いまでも大広間の床柱に龍馬が残したという刀痕が残されている。また英国人水夫が暗殺された「イカルス号事件」で、この日、花月に遊んだ海援隊の2名に嫌疑がかけられたため、龍馬が長崎奉行に差し出した苦情の下書きが、掛け軸としてここ花月に残されている。
これらは現在営業中の料亭内にあり、利用客以外は見学できない。
/料金 昼食5,000円〜、夜は1万円〜で予約が必要だ。

花月は史跡になっている
花月は史跡になっている
カステラの老舗、福砂屋本店
カステラの老舗、福砂屋本店
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明治、大正の雰囲気を持つ丸山交番
明治、大正の雰囲気を持つ丸山交番
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丸山公園に新しくできた龍馬像
丸山公園に新しくできた龍馬像

●出島

16世紀半ば、種子島を通じて鉄砲が伝来、同時にキリスト教が伝えられた。そして交易や信仰のためポルトガル船が、長崎県内では最初に平戸に入港し、後にいくつか寄港地を変えながら、元亀元年(1570)長崎が開港された。翌年ポルトガル船が初めて入港、「ポルトガル貿易港長崎」が誕生した。天正8年(1580)から7年間「キリシタンの町」「南蛮交易港」として繁栄、町には教会やヨーロッパ風の建物が建ち並び、南蛮人たちが行き交う異国の風が吹いていた。
出島神学校
出島神学校

しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令を布告、翌年領地を没収。慶長2年(1597)には京都や大阪のキリシタンを長崎に送り、宣教師26人を処刑したが、一方で秀吉は積極的に交易は続けた。その後を継いだ徳川幕府は、長崎港をポルトガル船ばかりではなく、朱印船の交易港としたが2代将軍徳川秀忠になると、キリシタン禁止令は一層厳しくなった。慶長17年(1612)宣教師などが処刑されたが、宣教師たちは交易に紛れ、危険を冒しながらも次々に日本へやってきた。
そこで、幕府は寛永12年(1635)日本人の海外渡航を禁止すると同時に、人工島を造り、そのなかの町にポルトガル人を隔離した。それが出島である。

出島の模型。出島内に作られている
出島の模型。出島内に作られている
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出島の護岸石垣
出島の護岸石垣

その後、寛永14年(1637)「島原の乱」によってキリシタンの脅威を思い知った幕府は、ポルトガル人とその混血児を海外に追放。この乱に乗じて幕府へ忠節を示したオランダが平戸にあったオランダ商館を出島に移され、以後、幕末の開国まで200余年間、出島は西欧の文化や知識の唯一の窓口となった。

オランダ商館長(カピタン)用の建物。内部も復元されている
オランダ商館長(カピタン)用の建物。
内部も復元されている

商館長の居室などは畳敷きだった
商館長の居室などは畳敷きだった

船頭用の建物や倉庫も並ぶ
船頭用の建物や倉庫も並ぶ
出島に近い港からは軍艦島へのクルーズ船が出ている
出島に近い港からは軍艦島への
クルーズ船が出ている


明治以降、出島周辺の埋め立てが進み、明治37年(1904)には、その姿が消えた。現在長崎市では、この歴史的建造物の復元に力を注いでいる。
昭和51年(1976)に制作された出島の全体が分かるミニ出島(模型)の他、出島への出入りの門、商館長の事務所や住まい、商館員たちの生活空間から倉庫など10棟が平成12年(2000)から18年(2006)の間に復元され、内部には当時の調度品などが展示されている。これら調度品の数々も、資料をもとにできる限り正確にと、オランダの古美術店や古道具店などから集めたもの、と館内案内人が教えてくれた。
さらにこれからも短期・長期とわたる復元計画があり、何年か後には、江戸時代の出島が完全近く復元されるかもしれない。
/入館料 500円、TEL 095-821-7200

出島の門
出島の門

輸入された砂糖などは天秤はかりが使われた
輸入された砂糖などは
天秤はかりが使われた

日本の バドミントンは出島から広まった
日本の バドミントンは
出島から広まった


●ごんあじ

長崎の五島灘に生息するアジのこと。本来アジは回遊魚だが、比較的浅い海に棲みついたものを『瀬付きアジ』という。五島灘には身体の色が金黄色のアジが生息する。この金色に輝いていることから“ごんあじ”といわれている。普通のアジに比べて脂がのっている。
まき網で捕獲し、7〜10日くらい水槽で静かに活かすことで、捕獲どきのストレスを和らげることができ、筋肉の乳酸が減って旨みを落とさないと、料理店の板前の話。長崎特産だが、非常に漁獲量が少ない。また長崎ブランドとして高級品扱いされているばかりか、ごんあじを食べさせる店も少ない。ちなみに偶然見つけた店は下記の通り。
/「海の幸」、TEL 095-821-3693
ごんあじ
ごんあじ

ごんあじの刺身
ごんあじの刺身
証明書も飾ってありました
証明書も飾ってありました



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取材:2010年3月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。