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日本ロマンチック街道(3)

ドライブライン

嬬恋村のキャベツ畑 信州小諸から軽井沢を経て嬬恋村へ。
日本ロマンチック街道は、信州上田と栃木県宇都宮を結ぶ全長320kmである。しかし、今回はその街道を一気に走り通したのではなく、多少横道にも入り、季節も少しズレながら3回にもわたったドライブであった。
最終回は、小諸から標高2,000mの高峯高原を抜けて嬬恋へ、再び嬬恋から軽井沢を経て小諸へのロマンチック街道を辿った。
本来信州のスタート地点である上田とその周辺は、すでにドライブガイドで紹介済みである下記を参照。
「信州山里の古刹と真田城下町松代(2)」(2008年2月)及び「北国街道と真田一族発祥地」(2005年5月)


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
小諸−(観光道路チェリーパークライン)−高峰高原−(浅間広域農道)−六里ヶ原−鎌原−(国道144号線)−羽根尾−(国道146号線)−浅間越−(白糸ハイランドウェイ有料道路)−白糸の滝・旧軽井沢−軽井沢−(国道18号線)−追分宿−(旧中山道)−小田井宿−小諸
行程 約150km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●小諸城址懐古園

小諸城は平安時代、小室太郎光兼をルーツに、後に信玄や秀吉の武将により、天下に類のない堅固な城が完成された。信玄が、重臣の山本勘助に命じて城郭を整備し、大城としたのが、小諸城の原型となった。武田氏滅亡後、織田信長の領国となったが、やがて徳川家康の領有となり、江戸時代には要衝の藩領として徳川譜代が治めた城である。
明治4年(1871)廃藩とともに役割を終え、明治13年(1880)小諸藩の旧士族により本丸跡に神社は祀られ、『懐古園』と名付けられた。現在の公園になったのは大正15年(1926)のこと。
ロマンチック街道案内図
ロマンチック街道案内図

懐古園一の丸へ
懐古園一の丸へ
正面は一の丸へ。懐古園で最も落ち着く場所
正面は一の丸へ。懐古園で最も落ち着く場所

●三の門

元和元年(1615)に創建されたが、「寛保戌の満水」と呼ばれる大洪水(1742年)で流失し、現在の門は明和2〜3年(1765〜1766)に再建されたもの。門の正面には「懐古園」という扁額が掲げられている。三の門は懐古園の象徴でもある。国指定重要文化財。
城郭内には、二の丸跡や黒門橋、黒門跡、馬場そして三の丸跡などがあり、苔むした石垣が往時を語る。本丸御殿があったところには、懐古神社が祀られている。周辺には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らの碑が建てられている。
/入園料 300円、TEL 0267-22-0296

内側からの三の門。向こう側、石垣の上は道路。「懐古園」の額がある
内側からの三の門。向こう側、石垣の
上は道路。「懐古園」の額がある

懐古神社。懐古園内にある
懐古神社。懐古園内にある
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●島崎藤村と小諸

明治32年(1899)、英語と国語の教師として 恩師木村熊二に招かれて小諸義塾に赴任。ここで函館の網問屋秦慶治の三女冬子と結婚し、この地で6年余りを過ごした。その間に「雲」「千曲川スケッチ」や大作「破戒」が起稿された。
懐古園内には、昭和2年(1927)、藤村の友人たちによって「千曲川旅情のうた」の詩碑が建てられた。碑面の詩は藤村の自書。
「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ・・・」と昔、暗記させられた詩が頭に浮かぶ。またメロディもついていて、石垣の下で草笛を吹いていた人がいたことも思い出された。
懐古園の水の手展望台に上ると、千曲川が見下ろせる。だが、残念なことに無粋なダムに情緒もない。
城下町は、仙石秀久によって整備され、城を中心に武家地を設け、北国街道沿いに付近の村々の住民を移住させて城下発展に努めた。江戸時代街道の宿場町としても栄えた。

藤村資料館
藤村資料館
懐古園から千曲川
懐古園から千曲川

●高峰高原

小諸市内からチェリーパークラインと名付けられた観光道路をときには急カーブを切りながら約30分上りつめると、突然「高峰高原ホテル」の大きな建物が目に入る。浅間山の西に続く標高約2,000mの車坂峠を中心になだらかな高原が広がる。
峠に立つと、眼下に小諸市や千曲川、遠くは富士山、八ヶ岳から北アルプスまで一望できるというが、あいにくの霧の中。一帯は湯ノ丸・高峰自然休養林に属し、春の芽吹き、初夏の新緑、秋の紅葉、そして夏には池の平湿原に咲く高山植物の花々が、人々を迎えてくれる。
高峰高原を散策する人
高峰高原を散策する人
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山の神の祠と鳥居(車坂峠)
山の神の祠と鳥居(車坂峠)
車坂峠。今は高峰高原と呼ばれる
車坂峠。今は高峰高原と呼ばれる

●嬬恋村

名前の由来は、日本武尊が吾妻山の鳥居峠に立ち、亡き妻・弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び「嗚呼わが妻よ」と嘆き悲しんだ、という伝説によるもの。
戦国時代には武田・真田氏の領地であったが、江戸時代は幕府直轄地となり、北国街道の往還として関所や宿場として人や馬の往来があった。
天明3年(1783)の“浅間焼け”と呼ばれる浅間山の大噴火で村は壊滅状態となった。

●大キャベツ畑

「高原キャベツ」で有名な嬬恋村は、標高700m〜1,400mに広がる高原だ。浅間山や四阿山(標高2,354m)の裾野は、8、9月の収穫時には、ゆるやかな斜面一面がキャベツの緑に埋まる。
明治末ごろから自家用として栽培されていたが、昭和初期に長野県からキャベツが本格的に導入された。そして戦後の開拓者によって大規模栽培が行われブランド「嬬恋キャベツ」が生まれた。ただ最近は、輸送に強く、長持ちするよう品質改良されたところもあって、以前のような柔らかさと甘みが欠けたようだ。
嬬恋村のキャベツ畑
嬬恋村のキャベツ畑
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広大なキャベツ畑の中を立派な農道が走る。浅間山を眺めるポイントとして最高の「パノラマライン」は、どういう訳か、地図上には、細い線で一般道路として扱われていない。そして素晴らしいキャベツ畑には、一匹の蝶々も飛んでいないのだ。

●浅間山の噴火と観音堂・鎌原(かんばら)

嬬恋鎌原は天明3年(1783)7月8日に噴火した火口より13kmのところにある。鎌原は浅間山の大噴火で火砕流に襲われ、当時の村民570人のうち477名の命が奪われた。このとき火砕流に気づき、観音堂へ逃れたどり着いた93名のみが奇跡的に助かった。
当時、観音堂への石段は150段余りあったという。かなり高いところにあったお堂だ。押し寄せる溶岩は石段を僅か15段だけ残して止まった。
昭和54年(1979)、発掘調査の結果、残された15段の石段のすぐ下で女性2名の遺体が発見された。いまでも残る15段の石段が生死を分けたことから、村人を守った奇跡の地として信仰されている。

お堂まで逃げた人は助かり、この階段のすぐ下で火砕流にのまれた人もいる
お堂まで逃げた人は助かり、この階段の
すぐ下で火砕流にのまれた人もいる

鎌原観音堂では地元の人が休まずにお籠もり
鎌原観音堂では地元の人が
休まずにお籠もり


いまでは、村人が交替で観音堂を訪れる人々に、お茶を振る舞ってくれる。
観音堂は天明の噴火より70年も前の建物だと、世話役の村人が教えてくれた。また、囲炉裏端に上がり込んでお茶を頂く、このすすだらけの建物も似たような年月を経て、こうして参拝客をもてなしているのだと、老人たちは楽しそうに寄り添っていた。
/参拝無料 お問い合わせ 嬬恋観光協会、TEL 0279-97-3405

●六里ヶ原

その昔、源頼朝の狩り場でもあったといわれている浅間の北山麓。その一角に「六里ヶ原の基点観音と道しるべ観音」がある。周囲は北軽井沢別荘地であり、特別な表示板もないので多くの車は素通りしていく。

ここは江戸時代交通の要所であった。天明の大噴火で火砕流が流れ、道は荒廃し、交通の難所となった。
旅人の苦労を見かねた分去茶屋の助四郎の提案で、六里ヶ原の道しるべとしての観音仏が作られた。これを基点観音とし、沓掛、大笹、狩宿の3方向に、それぞれ33体ずつ110mごとに設置。100体あった観音仏のうち、現在は3分の1ほど残ったものが桜岩地蔵境内に集められている。
道しるべ観音
道しるべ観音

●鬼押出し園

浅間大噴火で生まれた溶岩群。火口で鬼があばれて岩を押し出した、という当時の人々の伝えから付いた名前だ。全長5km、幅最大で2kmの巨大な溶岩群。近くにある廃墟となった展望台は、近づき難い不気味さで、崩れるまま放置されている。景観を損なうばかりか、危険なのでかたづけてもらいたいものである。
浅間の鬼押出し。木は生えているが広い溶岩台地
浅間の鬼押出し。木は生えているが
広い溶岩台地
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浅間牧場。ドライブインがある
浅間牧場。ドライブインがある
おっかなびっくり馬に乗ります
おっかなびっくり馬に乗ります

浅間火山博物館。浅間牧場から一直線
浅間火山博物館。浅間牧場から一直線
日本のレース黎明期は浅間が本拠。バイクの展示館もある
日本のレース黎明期は浅間が本拠。
バイクの展示館もある


●白糸の滝

軽井沢では定番の観光スポットだ。国道146号線と分かれ、有料道路の白糸ハイランドウェイ(300円)を辿ると道路沿いに長い駐車場があり、5分ほど歩く。 地下水が岩肌から湧き出す。それが細かい糸状に幾筋にもなって流れ落ちる。透明度は高く大雨が降っても滝の水は濁らない。夏は自然のクーラー、秋は紅葉が見事だ。

地下水が溶岩の隙間から吹き出す白糸の滝
地下水が溶岩の隙間から吹き出す白糸の滝
白糸の滝へは、旧・草軽電鉄の軌道跡の道をたどる
白糸の滝へは、旧・草軽電鉄の
軌道跡の道をたどる


●旧軽井沢

一昔前は、旧軽井沢といえば高級リゾート地の代名詞のようなところであった。唐松林の細い道が縦横に続き、洋館風の別荘が樹木を通して望まれ、静かな雰囲気が漂っていた。
いまは旧三笠ホテルや万平ホテルなどが、その面影を残しとどめるだけ。木立の狭い道は、車がふさぎ、自転車が列をなす。ここは別荘地ではなく観光地なのだ。
旧軽井沢のメインストリートは、原宿の竹下通りと見まがうほどだ。高原の雰囲気を持つみやげもの店が軒を連ね、若い女性には人気のあるところ。
ひっそりとした雰囲気の地域はめっきり減った
ひっそりとした雰囲気の地域は
めっきり減った


軽井沢の繁華街に昔の面影はない
軽井沢の繁華街に昔の面影はない
軽井沢ブランドのワインも売られている
軽井沢ブランドのワインも売られている

旧・三笠ホテル。よき時代の軽井沢を代表する建物
旧・三笠ホテル。よき時代の
軽井沢を代表する建物
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万平ホテルは名所の一つ
万平ホテルは名所の一つ

●追分宿

JR軽井沢駅前から国道18号線を小諸方面へ。中軽井沢を過ぎると、間もなく日本橋から40番目にあたる一里塚を見る。一里塚の脇から旧中山道が走る。僅か数百メートルの短い旧街道だが、北国街道との分岐点として栄えた宿場町の風情を残す。
室町時代の様式が残された「浅間神社」、昭和55年(1980)に復元された「高札場」、古い建造物の「枡形茶屋」や老舗旅館などが佇む。この昔の面影を残す町並みには「堀辰雄文学記念館」や「追分宿郷土館」などもある。

中山道の雰囲気を残す追分の町
中山道の雰囲気を残す追分の町
追分の浅間神社。一茶の句碑もある
追分の浅間神社。一茶の句碑もある

堀辰雄記念館
堀辰雄記念館
郷土館では街道の歴史が分かる
郷土館では街道の歴史が分かる

江戸へ39里。追分の一里塚
江戸へ39里。追分の一里塚
無人の信濃追分駅には農協の出店があった
無人の信濃追分駅には農協の出店があった

●追分分去れ(おいわけわかされ)の道しるべ

右は北国街道、左は中山道とある分岐点は形は昔のままだが、まるで中州にとり残されたようなところにある。道しるべの他、木立の中に素朴な石仏、馬頭観音や赤子を抱いた石仏などがひっそりと建っている。
国道18号線を避け、是より旧中山道、小田井宿を経て小諸へと戻る。

分去れ。左・中山道、右・北国街道
分去れ。左・中山道、右・北国街道
静かなたたずまい。(小田井宿)
静かなたたずまい。(小田井宿)



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取材:2008年8月