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信州・諏訪大社とその周辺(2)

ドライブライン

秋宮弊拝殿、片拝殿 江戸から五十三里十一丁、甲州道中は下諏訪で終わり中山道に合流する。上諏訪の黒松一里塚から甲州道中の終わる下諏訪まで、あと一里十一丁、約5,000m(一里は約4km)。その間に、かつての街道に残された面影をたどりながら、ゆっくり車を走らせた。
そして、辿り着いた先には諏訪大社下社春宮・秋宮の荘厳な社が佇む信仰の森がある。春宮の近くには田んぼの中に鎮座する巨大な石仏や、京へと向かう中山道の下諏訪宿の街並み、皇女和宮がお泊まりになったという当時のままの本陣や湯量豊富な温泉宿と興味が尽きない旅のコースである。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
(中央自動車道)−諏訪IC−(国道152号線)−諏訪大社上社本宮・上社前宮−(国道20号線)−高島城−諏訪湖畔−下諏訪−諏訪大社下社秋宮・春宮周辺
上諏訪から下諏訪へ国道20号線を避けて旧道を通る。道幅が狭いので、対向車に注意。

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●温泉寺

臨済宗妙心寺派、歴代諏訪藩主の菩提寺。寺の裏山には廟がある。建立時期は確かではないが、明暦3年(1657)高島2代目藩主忠恒が没した直後と思われる。現存の建物はその後修理または改装が行われながら今日に至っている。廟内には忠恒の石塔があり、その脇には3〜8代までの藩主の石塔が並んでいる。

温泉寺
温泉寺
温泉寺は昔から名所でもあった
温泉寺は昔から名所でもあった

高島城2代城主・忠恒の廟は修復中だった
高島城2代城主・忠恒の廟は修復中だった
歴代藩主の墓所
歴代藩主の墓所

驚いたことに「あらざらむ この世のほかの思い出に 今ひとたびの逢うこともがな」の歌を詠んだ平安中期の歌人・和泉式部の墓と書かれた小さな墓石が廟の下手、草深い斜面にあった。諏訪と和泉式部とは結びつかないが、夫とともに地方に赴任してからの消息がわからなくなったことから、逸話や墓所が全国各地に存在するようになったという。

鉄柱の名はあるが石造り。かつては上社にあったという
鉄柱の名はあるが石造り。
かつては上社にあったという

和泉式部の墓
和泉式部の墓

一説には「京都誓願寺の女性たちが中世に式部の伝説を語り物にして諸国を歩いたことが、各地に墓や碑を造らせた」ともいわれている。琵琶湖畔の義仲寺に松尾芭蕉の墓があるが、住職は「ここが本当の芭蕉の墓。芭蕉の墓は全国に200余もある」と語ってくれたことを思い出す。

境内にある県宝指定の梵鐘のある鐘楼からは諏訪の町と諏訪湖が一望できる。
温泉寺鐘楼から見る諏訪の町と湖
温泉寺鐘楼から見る諏訪の町と湖

●先宮神社

神社創建は古事記の「国ゆずり」の神話の一節に見られるという。諏訪神社の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が出雲より諏訪の地にこられた以前、すでに原住民の神であった。しかし、建御名方神が鎮座した当時、諏訪明神以前の神は国ゆずりのため抵抗したが、やがて服従した。
ところが、それから他の地に出ることが許されず、いまでも境内前を流れる小川には橋を架けないと言い伝えられている。
境内のケヤキは樹齢650年と推定され、古来より「大樹は人を育てる」といわれ神宮上社の布橋門横のケヤキとともに最大級で有名な巨樹である。
先宮神社の大ケヤキと拝殿
先宮神社の大ケヤキと拝殿
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●政屋(橋本)

江戸時代の面影をそのまま残す茶屋。木造2階建て、切り妻平屋造りで格子戸がはめられた建物は格式の高さを感じさせる。建築は江戸時代後期のもの。門は高島城のものを移築したか、あるいは模したといわれているが定かではない。
内部は一般公開されていないが、現在は生け花教室、茶道、短歌や講演会など文化系サークルなどのイベント会場として利用されている。
/申込み問い合わせ、TEL 0266-28-9000


●柿蔭山房(しいんさんぼう)

アララギ派の詩人、島木赤彦の自宅。明治41年(1908)、伊藤左千夫を中心とした写実や生活密着的歌風を特徴とした集まりで、短歌雑誌「アララギ」の一派。有名な歌人には斉藤茂吉や土屋文明などがいる。諏訪生まれの島木赤彦は、歌を発表するとき「柿の村人」と号したこともあり、自宅を柿蔭山房と名付けた。
かつては諏訪湖を見下ろしたであろう茅葺き屋根の部屋から「湖の氷はとけてまほさむし 三日月の影波にうつろふ」と詠んだ。その庭には、樹齢350年を超えるという老松が龍のように枝を伸ばしている。
柿蔭山房のすぐ上には津島神社があり、境内には伊藤左千夫、斎藤茂吉の歌碑などがある。

島木赤彦の家(柿蔭山房)
島木赤彦の家(柿蔭山房)
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島木赤彦家に近い津島神社
島木赤彦家に近い津島神社

●石投場

諏訪湖を眼下にながめる絶好の場所。昔は石を投げれば湖にポチャンと届くようなところだったことから、石投場と呼ばれていた。明治13年(1880)、明治天皇ご巡幸の折りには、ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったという。
いまでは湖と街道の間には国道とJRの線路や電線が走り、石を投げるというわけにはいかないが、当時は一休みする場所だったのだろう。

石投場。すぐ下が諏訪湖だった
石投場。すぐ下が諏訪湖だった
石投場からの諏訪湖。かつては線路のところまで湖だったという
石投場からの諏訪湖。かつては
線路のところまで湖だったという


●承知橋

江戸から五十三里目の一里塚を右に見て間もなく、思わず通り過ぎてしまいそうな石造りの小さな橋がある。その昔、武田信玄が合戦に赴くときに渡った橋といわれている。
信玄が途中、諏訪明神に戦勝祈願を「勝ったら社殿を建て替え、三重塔を建立する」と誓った。戦いに勝った信玄が帰途につき、この橋を渡ろうとしたところ馬が立ち止まり動こうとしない。そこで神との約束を思い出した信玄は「神のお告げ承知仕り候」と申し上げたところ、馬が歩き出したとか。それからこの下を流れる川を承知川、この川を承知橋と呼ぶようになったという。

甲州道中(街道)最後の一里塚。江戸から五十三里とあった
甲州道中(街道)最後の一里塚。
江戸から五十三里とあった

承知橋近くには承知地蔵
承知橋近くには承知地蔵

●諏訪大社下社秋宮

甲州街道と中山道が交わる交通の要衝にある。下諏訪温泉の近くということで、境内にある手水の龍の口を通して温泉(御神湯)が流れている。本殿はなく正面には神楽殿で、両脇を青銅としては日本一大きい狛犬が守っている。
神楽殿やその奥の弊拝殿、片拝殿などは、春宮と同じ造りながら江戸時代を代表する建築の一派である立川派の初代、立川和四郎富棟、2代目和四郎富昌により、安永10年(1781)に建てられた。弊拝殿の四隅には4本の御柱が立ち、奥にあるイチイの木が御神木だ。
諏訪神社下社秋宮
諏訪神社下社秋宮

根入り(ねいり)の杉。丑三つ時にいびきをかくという
根入り(ねいり)の杉。
丑三つ時にいびきをかくという

秋宮弊拝殿、片拝殿
秋宮弊拝殿、片拝殿

秋宮・春宮での恒例の祭事として2月1日、春耕にさきがけて神霊が秋の宮より春の宮に移され、御霊代は8月1日には秋宮へとお遷しする、遷座祭に引き続き、例大祭が行われる。このときの行列の供奉として、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せて氏子たちが曳き、後で人形は焚き上げられる。春宮と並んで社殿の多くが国の重要文化財である。

●諏訪大社下社春宮

JR下諏訪駅から西へ鳥居をくぐると、その昔、大祝一族と多くの武士たちが流鏑馬の腕を競ったといわれる真っ直ぐに延びた大門通りが続く。約1kmのこの道の中央には室町時代の建造といわれる太鼓橋がある。この橋の先は神域とされ殿様でも馬や駕籠から降りなければならなかった。現在もこの橋を渡れるのは遷座祭で神様が乗った神輿だけである。道は太鼓橋を避けて大きく迂回している。
今は春宮の前に駐車場がある。車を駐め石段を上り鳥居をくぐると、静寂な森の中に社殿が並ぶ境内へと入る。秋宮同様本殿はなく正面に神楽殿、その奥に弊拝殿、片拝殿、さらに奥には宝殿が建つ。宝殿奥にそびえる杉の木が御神木である。
弊拝殿など細部に施された彫刻は、江戸時代を代表する建築の一派大隅流の伊藤儀左衛門と弟の柴宮長左衛門の建造によるもの。秋宮が同じく江戸時代の建築の立川流ということで2つの流派が同じ図面で競い合ったという傑作で、互いの意地が感じられる作品だ。


●本陣(岩波家)

中山道は東海道の裏街道として江戸と京都を結ぶ大きな街道であり、甲州街道との分岐点でもあったところ。参勤交代、茶壺道中、公用で通る諸大名が宿泊した屋敷と名園が江戸時代のまま残されている。
元禄元年(1688)にはすでに下諏訪宿本陣問屋役を命じられ、明治維新までその役を勤めた。代々岩波太左衛門を襲名し、明治中期ころまでは下諏訪の耕地の約4分の3を所有する大地主であった。寛政12年(1800)の記録では建坪277坪、敷地は約2,000坪もあり、客室、居住部の他に土蔵、別邸、屋敷内神社まであった。

下諏訪本陣跡
下諏訪本陣跡
本陣へ泊まる大名が宿に掲げられ書き出された
本陣へ泊まる大名が宿に掲げられ
書き出された


本陣の庭。和宮御休息もここだったようだ
本陣の庭。和宮御休息もここだったようだ
皇女・和宮が使われた茶器など
皇女・和宮が使われた茶器など

京風数寄屋造りの洗練された建物の本陣主屋からは、中山道随一の名園と称される庭園を望む。東西の山や諏訪大社秋宮の森を借景に、深山幽谷の趣きのある築庭式石庭園であり、明治天皇行在所、和宮御宿泊どころとして、その風格を保っている。末裔という年配の女性が昔を語ってくれる。
現在は、広かった敷地や家屋も半分は分家が経営する近代的な建物の温泉旅館となっている。
/観覧料 400円、TEL 0266-28-7055

●万治の石仏

下社春宮の旧道の脇にある巨大な自然石に僧の衣をまとった姿が彫られ、その高さ2mの石の上に仏の頭を載せた不思議な石仏。「万治3年」の銘が刻まれていることから、約350年前からここに鎮座している阿弥陀如来像といわれている。
芸術家の岡本太郎や作家新田次郎など、多くの人が訪れこの石仏を絶賛したことから広く知られるようになった。春宮から徒歩10分。
万治の石仏。春宮のすぐ横川沿いにある
万治の石仏。春宮のすぐ横川沿いにある

地元民が自然に愛した自然石を生かした石仏
地元民が自然に愛した自然石を
生かした石仏

下諏訪駅の石仏(観光用レプリカ)
下諏訪駅の石仏(観光用レプリカ)

●歴史民俗資料館

甲州道中と中山道の合流したところにあるかつての商家だった建物が下諏訪町立の資料館になっている。東には中山道一番の難所といわれた和田峠、西には塩尻峠の2つの峠に挟まれた下諏訪宿は交通・軍事上の要衝であった。
その上、諏訪大社の下社詣での人々も絶えることもない宿場町であり、またこの町には古くから綿の湯、小湯、旦過湯などの温泉が湧いていた。
下諏訪宿入口の広場
下諏訪宿入口の広場

古い民家を保存した下諏訪歴史民俗資料館
古い民家を保存した下諏訪歴史民俗資料館
商家の内部が保存されている
商家の内部が保存されている
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


綿の湯。中山道、甲州街道出会いにある
綿の湯。中山道、甲州街道出会いにある
下諏訪は湯量豊富
下諏訪は湯量豊富

江戸時代の商家の特徴を残す「縦繁格子」の出格子造りで、大戸入り口脇には「見世」と呼ばれる板の間に「通り庭」といわれる裏庭へと通じる土間がある。
土間の壁には、かつて昔の旅籠屋の看板が飾られ、天井の低い1階と2階には、文久元年(1861)皇女和宮が中山道を下り将軍徳川家茂への輿入れされる際の、前後四日間8万人の行列図などの資料がある。他に幕末、水戸の武田耕雲済天狗党浪士以下1,000名と高島・松本両藩の「和田嶺合戦」「偽官軍事件」などの絵や資料が展示されている。
/入館料 220円、TEL 0266-27-8827

中山道の宿
中山道の宿
春宮下馬橋。今は車道の真ん中に残る
春宮下馬橋。今は車道の真ん中に残る

霞ヶ城の手塚光盛像。能「実盛」の題材にもなった武将
霞ヶ城の手塚光盛像。能「実盛」の
題材にもなった武将

甲州街道終点。中山道下諏訪宿問屋場跡。江戸へ五十三里十一丁、京都へ七十七里三丁の文字も
甲州街道終点。中山道下諏訪宿問屋場跡。
江戸へ五十三里十一丁、
京都へ七十七里三丁の文字も




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下諏訪温泉の公式ホームページ
下諏訪温泉旅館組合の運営。諏訪大社、万冶の石仏などのみどころや諏訪湖ナイトクルーズの案内など。
諏訪市観光ガイド
霧ヶ峰高原など諏訪市の観光スポットを紹介しているほか、ハイキングマップも用意されている。
信濃國一之宮 諏訪大社
上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮の4つの境内地をもつ神社の案内。御柱大祭などの行事・神事も紹介。

取材:2011年5月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。

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