坂本龍馬・京都編

龍馬が歴史に名を残すことになった薩長同盟から大政奉還へと続く激変の舞台、京都。倒幕派の志士たちを取り締まった新撰組が厳重警戒を敷く中、龍馬ら志士たちが長州藩邸、薩摩藩邸を回り東奔西走した町であり、坂本龍馬と中岡慎太郎が無念の最期を遂げたところである。
それらをいまに残す建物やゆかりの地などは少なく、墓地の他は記念碑、銅像と後世に作られたものや、それぞれの跡地の碑ばかりになった。が、そこは「日本国のために」と幕末から維新へと変えた人々のエネルギーが、いま強く感じられる場所でもあった。

<コース>
京都市内−伏見(往復)
行程 約50km
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●三条・四条大橋周辺にある龍馬ゆかりの地
幕末の志士たちが駆けめぐった河原町界隈の史蹟を訪ねようと車を近くの駐車場に入れて歩く。近代化されて久しい街角からは一世紀半前、あの激動の時代の面影を探すことは難しいだろうと思っていた。
だが、再びNHK大河ドラマ放映とあって、ガイドブックや地元の案内板なども新しく整備され、あまり迷うこともなく志士たちのゆかりの場所を見つけることができた。
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●近江屋跡
河原町通りにある龍馬が京都で起居した醤油商・井口屋新助家。坂本龍馬と中岡慎太郎の終焉の地である。
慶応3年(1867)11月15日夜、龍馬は陸援隊長の中岡慎太郎と会談中だった。そのとき近江屋に来客を装った数人の武士が2階に上り、2人がいた部屋に入り、突然、ひとりは龍馬の額を、もう一人が中岡の後頭部を斬りつけた。現場、8畳間の床の間に飾ってあった掛け軸を、龍馬の血で染めた。犯人は判明していない。
この残虐な暗殺現場も今は、コンビニの前に立つ遭難碑と真新しい案内板のみだ。実際の跡地は道路拡張のために半分は河原町通りになっているそうだ。
河原町通りを挟んだ前には、中岡慎太郎寓居跡の碑がある。
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 龍馬・慎太郎終焉の地。 今はコンビニになっている
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 中岡慎太郎が住んだ 家跡は紙屋さん
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●酢屋・龍馬寓居跡
河原町通りから少し三条大橋へ向かう木屋町通りにあった。木屋町とは材木商が多くあった町。高瀬川に沿う木屋町は、京都・伏見間の運河として豪商が軒を連ねていた。酢屋は創業約290年、現在も材木商を続けている。
土佐藩の支援を得て作った海援隊の京都本部となった場所で、龍馬の寓居でもあった。
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 龍馬・京都の本拠だった酢屋
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 龍馬が住んだ酢屋跡の碑
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現在の酢屋は材木商を続けながら、店内にはお箸や食器、おもちゃなどの木工品が並べられ、観光客に人気の店となっている。
この他、高瀬川沿いには土佐藩邸跡や土佐稲荷神社などもある。
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 龍馬も参拝したといわれる土佐稲荷
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●先斗町
鴨川と木屋町通りの間に、南北に走る石畳の狭い通りにお茶屋が軒を並べる街。先斗町の名前の由来は、一説では織田信長時代にこのあたりにポルトガル教会があり、ポルトガル語のポント(端)またはポントス(橋)が語源といわれている。
狭い道の両側にお茶屋、食事処、酒場と軒を連ねた繁華街で、京都観光には必ずといってよいほど訪ねる場所のひとつでもある。この日はあいにくの雨だったが、ステキな芸奴姿の女性に出会った。夏は鴨川の流れの上に納涼床が出て観光客の人気を集めている。
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 雨の先斗町
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 先斗町の歌舞練場
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街の中には昭和2年(1927)に完成した歌舞練場がある。鉄筋コンクリート造り、地上4階、地下1階の建物で、花街の芸者たちの芸の練習場であり「鴨川をどり」の舞台であったが、現在はこの他に歌舞会主催の行事以外、一般の歌や踊りのおさらい、稽古、展示場として開放している。
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●伏見
京都の中心部から南に国道24号線を約10km、桃山文化が花開いた伏見は、日本を代表する酒造りの街でもある。柳並木に白壁の土蔵の酒蔵、伏見城築城の折、宇治川の水を引き込んで外濠とした。この酒どころ伏見を象徴する濠川は、かつては三十石船も行き交っていたという。今は観光用に十石舟が復元されている。
このあたり一帯もまた、維新の志士たちの血なまぐさい激闘が繰り広げられていた。新撰組の近藤勇も銃撃されたが、龍馬が襲われた「寺田屋襲撃事件」の場所である。
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 伏見・濠川沿いには酒蔵が並ぶ
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●寺田屋
江戸時代初期から続く船宿で、淀川の航行権を持ち、主な収入源は手数料だが、旅館業も兼ねていた。そして早くから薩摩藩の指定宿ともなっていた。
慶応2年(1866)1月24日の深夜、寺田屋を伏見奉行所の幕府役人たちが襲撃した。この時龍馬は前々日に薩長同盟が成立したことを喜び、長州藩士の三吉慎蔵と酒を酌み交わしていたときだった。
その時、外の気配にいち早く気づいたお龍(後の妻)は、いち早く2階の龍馬たちに知らせた。入浴中だったお龍が裸で階段を駆け上がったと伝えられ、のちの映画や芝居の見せ場にもなったところだ。龍馬はピストルで応戦しながら濠川近くの材木小屋に身を隠し、ここから薩摩藩の舟で薩摩伏見屋敷に逃れた。傷を負った右手は西郷隆盛から差し向けられた医師により手当を受けた。
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薩摩藩伏見屋敷は約800m、濠川を遡った現在の松山酒造の場所である。
寺田屋は当時の建物そのままで、龍馬と三吉が酒を酌み交わした部屋、お龍が裸のまま駆け上がった階段や刀傷、弾痕も生々しく残されている。
ところが、戊辰戦争の兵火で寺田屋は焼けていたという、「建て替え偽装説」が2008年から浮上。現在は京都市産業観光局制作のホームページによると、火災後に建て替えられた、となっている。
/入館料 400円、TEL 075-622-0243
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 寺田屋の庭にも龍馬像
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 伏見・寺田屋
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 かつて寺田屋の前は運河の 船着場だった
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●酒の博物館「月桂冠大倉記念館」
伏見とは「伏水」と記されたほど、豊かな伏流水に恵まれたところ。水が良いことから昔より酒造りが盛んなところ。京都・堺へは濠川から宇治川・淀川を利用した水路で、十石舟、三十石船が往来、船着場としての繁栄を誇った。いまも多くの酒造り屋の蔵が建ち並ぶ。
その中の一つ、寛永14年(1637)創業の月桂冠は、その古い建物をそのまま活かした博物館で、昔の酒造りの道具や工程などを展示説明してくれる。銘酒を並べた売店では、試飲もさせてくれる。
/見学は無料、TEL 075-622-0243
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濠川には、当時の十石舟を復元した遊覧船が観光客を楽しませてくれる。寺田屋浜乗船場を往復するコースは約40分、酒蔵の街をめぐる。
/料金 1,000円
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●維新の道
知恩院、八坂神社、高台寺、清水寺と人気観光スポットを中心に広がる東山区、京都霊山護国神社へ向かう参道を「維新の道」という。途中には、豊臣秀吉の妻(北の政所ねね)が建立した高台寺、彼女の終焉の地の圓徳院とともに、余生を過ごしたところがある。「ねねの道」と呼ばれ、維新の道とも重なっている。
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 ねねが歩いたと言われる高台寺への道
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 圓徳院
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 ねねの最期となった圓徳院
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 高台寺
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突き当たりは円山公園で、龍馬と中岡慎太郎ふたりの銅像が建っている。また八坂神社の門前町として栄えた花街、高級料亭やお茶屋が並ぶ祇園町も近い。小路を辿ると、舞妓のあでやかな姿に出合うこともある。
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 円山公園
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 龍馬(左)と中岡慎太郎像(円山公園)
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 舞妓さん姿の女性観光客は人力車で巡る
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 塀を巡らした料亭街(祇園)
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●霊山護国神社
維新の志士たちを祀った護国神社は、円山公園からかなりきつい坂道を上る。途中に文久3年(1863)1月に土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞など、また同6月には長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉など反幕府勢力の各藩志士代表者会議が行われた「翠紅館」がある。現在は料亭になっている。
また近くには、日本で唯一の幕末・明治維新の歴史博物館「霊山歴史館」もある。志士たちの肖像画、写真、遺品などが展示され、龍馬・中岡慎太郎の手紙や暗殺された近江屋の模型などもある。
/入館料 400円、TEL 075-531-3773
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 護国神社
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 護国神社への参道にある 維新の道の碑
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 霊山護国神社前に霊山歴史館がある
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 翠紅館跡。料亭になっている
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霊山護国神社は明治天皇の発案で、明治元年(1867)維新の志士たちの霊を慰めるために創設された。天誅組の志士たちをはじめ、長州藩士や池田屋騒動で新撰組に暗殺された殉難の志士、維新の志士1,356御霊が祀られている。また日清・日露・満州・大東亜各戦役に国のために戦歿した英霊を合祀されている。なかでも参拝者の絶えない墓所は、石の鳥居の中に眠る坂本龍馬・中岡慎太郎である。そして霊山の最も高い場所には木戸孝允(桂小五郎)と妻松子の墓がある。
新しい時代を夢見て逝った志士たちの眠る霊山墓所からは、京都の町が一望できる。
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 龍馬(左)と中岡慎太郎の墓所
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 木戸孝允の墓所
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取材:2009年12月
※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。
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