ニッポンレンタカーHOME > 旅のお役立ちガイド > ドライブガイド > 四国・坂本龍馬脱藩の道(2)

四国・坂本龍馬脱藩の道(2)

ドライブライン

神幸橋と三嶋神社 時は幕末、徳川幕府から明治維新へと日本は大きくうねる波の中にあった。時を同じくして西洋諸国からの開国要求も強くなった時代に、薩長同盟、大政奉還の実現へと行動を起こした男、龍馬は藩という小さな器を捨て、文久2年(1862)3月24日未明、ふるさと高知土佐藩と決別し脱藩(脱藩は国禁を犯す重罪であった)をした。
長州(現在の山口県)へ向かうにあたり、高知から愛媛県長浜まで四国山地の険しい峠をいくつも越えたルートは、正確にはわかっていないが、いくつかの説がある。ここでは、車が通れる主な経路の一部を辿ったに過ぎないが、現在でも鬱蒼とした山の中に続く道である。
150年前、雨の中を旅立ったといわれる龍馬の困難な道の先は、限りない夢が広がっていた。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
高知空港−高知市内−(国道55号線)−安芸−高知城−(国道33号線)−佐川−(国道494号線)−(国道197号線)−檮原町−伊予長浜−(国道378号線)−松山−(山陽高速道路)−京都
行程 約150km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>



●檮原(ゆすはら)への道

高知市街を出て佐川まで約30km、新興住宅街を抜け、仁淀川を越える交通量のかなり多い国道33号線を走る。佐川で国道33号線と分かれ国道494号線経由で須崎市街を抜け、国道197号線に入った。ここより伊予長浜まで、約120kmは国道197号線上を辿るが、檮原までは龍馬も歩いた道「維新の道」が断片的ではあるが、国道の近くに残されていた。
檮原から脱藩の道は、いったん、四万十川の源流を経て韮ヶ峠を越えて再び、国道197号線に合流している。しかし、藩の掟を破っての山越えである。時には道なき道を歩いたのかもしれない。

国道を離れると狭い道が続く
国道を離れると狭い道が続く
山越えが続いた
山越えが続いた
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


急な山道を辿るとひょっこり棚田に出会う
急な山道を辿るとひょっこり
棚田に出会う

大きな石に「維新の道」とあった
大きな石に「維新の道」とあった

車を降りて歩くことも多かった
車を降りて歩くことも多かった
山中には古い標識もあった
山中には古い標識もあった

脱藩の道は旧道に一部が残る
脱藩の道は旧道に一部が残る
ドライブインも茶堂風
ドライブインも茶堂風

●檮原町

この町の歴史は古く、延喜13年(913)津野経高(つのつねたか)がこの地を開拓、以来津野氏の所領となり、周辺の地域の政治、文化の中心として発展してきた。
その後、慶長5年(1600)山内一豊がこの地を支配、以後山内氏の所領となった。檮原6ヶ村東津野3ヶ村を併せて「津野山郷」と称し、明治維新を経てそれぞれの村の改名、合併を繰り返し、昭和41年(1966)、現在の檮原町となった。
檮原への山中には棚田が多い
檮原への山中には棚田が多い

高知を出奔した龍馬は、同志である澤村惣之丞とともに翌3月25日檮原に到着。夜、勤王の志士である那須俊平・信吾父子の家に宿泊した。
幕末から維新への大きな時代のうねりの中にいたのは龍馬だけではない。維新を夢見て決起した土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した檮原の志士たちが、往来した道や番所跡、茶屋、屋敷跡そして志半ばにして不遇な最後を遂げた彼らの墓所などがこの町に残されている。

国道197号線沿いに檮原町へ入ると、町役場の建物が目に入る。役場の観光課を訪ね、町の地図を手に入れた。見どころを尋ねると地理ばかりか町の歴史まで親切に教えてくれた。

●神在居(かんざいこ)の千枚田

檮原の標高は約200〜1,460mとかなりの高低差がある。平地が少ないことから山間の斜面を利用した農耕作が発達した。なかでも国道197号線がトンネルで貫く山には多くの棚田が広がっていることから「神在居の千枚田」と呼ばれている。
棚田を見下ろす展望台には、ここを訪れた作家・司馬遼太郎が「農業が築きあげたピラミッド。万里の長城にも匹敵する」と驚いたと案内板に書かれていた。棚田への道は細い農道や林道を通るので、車では小型車、あるいは徒歩で訪ねよう。また観光客には分かりにくいところであるので、地元の人に尋ねることを薦めたい。
いまは地元だけでは棚田を守れないため、平成4年(1992)から「千枚田オーナー制度」をはじめている。
/オーナー募集問い合わせ 檮原町役場、TEL 0889-65-1250

司馬遼太郎さんが感激したという千枚田
司馬遼太郎さんが感激したという千枚田
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

こんな案内もあった
こんな案内もあった

誰が作ったのか、洒落た水飲み場があった
誰が作ったのか、洒落た水飲み場があった
肩を寄せ合うように並ぶ野仏
肩を寄せ合うように並ぶ野仏

●三嶋神社

津野郷の開祖の津野経高が伊豆(静岡県)より三嶋大明神を勧請したと伝えられている。現在の本殿は享和3年(1803)に建造された建物で、多くの志士たちも、この社は馴染み深かったであろう。
津野経高はこの地に檮の木が多いことから「檮原」と名付けた。境内には樹高30m、樹齢400年の通称「朝鮮松(ハリモミ)」の巨木がある。文禄元年(1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵に、この村からも従軍し、帰還のときに持ち帰って植えたものと伝えられている。境内には津野家代々を祀る「津野神社」があり、木造の神馬などがある。
参道に架かる神幸橋は町内産の木材を使用した木製の屋根付きだ。この橋を渡った神社境内横から「龍馬脱藩の道」が韮ヶ峠へと続く。

神幸橋と三嶋神社
神幸橋と三嶋神社
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

檮原川に架かる神幸橋
檮原川に架かる神幸橋

彫物、しめ縄、裸電球の組み合わせ
彫物、しめ縄、裸電球の
組み合わせ

三嶋神社には立派な土俵もあった
三嶋神社には立派な土俵もあった

●維新の門群像

維新の門群像
維新の門群像

檮原の町を見下ろす高台に、坂本龍馬と澤村惣之丞はじめ檮原の那須俊平・信吾父子、土佐勤王党を結成した吉村虎太郎、掛橋和泉など志をともにした志士8名の像が建つ。新しい時代を夢見て動乱の中に身を投じた志士たちであったが、明治という近代国家の誕生を前にして壮絶な死を遂げた。
この志士たちが駆け抜けたこの地に建つ「維新の門」と名付けられた8人の志士の群像からはそれぞれの男たちの未来を信じた決意がみなぎっている。いまも郷土の人々の誇りとして、町の人々の熱い想いがこの群像を建立した。
丘の上の群像は迫力がある
丘の上の群像は迫力がある

●旧掛橋和泉邸

掛橋和泉は神職の家の養子。隣家にあった庄屋の息子・吉村虎太郎と親交を持ち、剣と読書を学び、勤王の志を固めた。
文久2年(1862)龍馬が脱藩した年、多くの同志が相次いで脱藩。家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助したが、やがて養母の知るところとなり、激しく咎められた。しかし、義母に事実を語ると同志に累が及ぶことを恐れ、また義母を欺くこともできず自決した。
旧・掛橋和泉邸
旧・掛橋和泉邸

●六志士の墓

旧掛橋邸の近く、旧道沿いにある志士6名の墓。掛橋和泉他、武芸に長け那須道場を開き、とくに「土佐の槍の達人」といわれ、後に脱藩して長州忠勇隊に入り戦死した那須俊平。その息子で龍馬と澤村を韮ヶ峠まで案内した那須信吾、吉村虎太郎・前田繁馬・中平龍之介で、それぞれ自決や戦死した志士たちだ。
説明板には昭和10年(1935)に村でここに分墓として祀ったとある。
六志士の墓
六志士の墓

●茶堂

その歴史は慶長9年(1604)に遡る。その起源は、弘法大師、考山霊、三界万霊を祀り、厄払招福の祭りをするという申し合わせがされたという。こうして津野山郷各村々に茶堂を建て、明治の終わりころには53棟もあったが、昭和に入って減少し、現在は町内に残る茶堂は13棟でそれぞれ保存されている。
木造平屋建て茅葺き屋根、板敷きの素朴な形式で、一辺に板壁があるだけ。大きさも間口二間(3.6m)奥行き一間半(2.72m)とどれも同じである。茶堂には木造、石像などの諸仏が安置されている。
茶堂、村民や旅人が利用した
茶堂、村民や旅人が利用した

地区住民が交替で道行き交う人に茶菓子の接待を行い、信仰と社交の場としての役目を果たしてきた。現在も季節や場所により、接待を行うところもあると、役場の人が教えてくれた。
/問い合わせ 檮原町役場、TEL 0889-65-1111

●ゆすはら座

昭和23年(1948)、なにも娯楽もなかった時代に唯一の「芝居小屋」として建設されたもの。建築様式は大正時代の和洋折衷様式を取り入れたモダンな外形に、花道の付いた舞台と、天井の木目の美しさを残す。また2階の桟敷席もいまはない珍しさだ。
芝居、歌舞伎から映画上映と住民が楽しんだ施設も不要となったが、平成7年(1995)町が有形文化財に指定したことで、移転復元した。サークル活動や研修、グループでの合宿所として利用できる。ただし、電話はない。携帯電話は使用可能だそうだ。
檮原町に残る芝居小屋、ゆすはら座
檮原町に残る芝居小屋、ゆすはら座
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


●伊予長浜

檮原を出た龍馬と澤村は道案内をしてくれた那須俊平と愛媛県内子町近くで別れ、肱川を2人は大洲を抜けて伊予長浜に着いた。土佐を出てから3日目であった。この夜は長浜の富屋金兵衛宅へ泊まったとある。
現在は個人住居となっていて入ることはできないが、門前に真新しい碑が建っている。長浜大橋から旧道と思われる狭い道を川縁方面へ向かったが、観光案内には一切載っていないので、地元の人に尋ねながらたどり着いた。近くには小さな入り江になったところがあり、漁船が数隻繋留されていた。昔の港だという。龍馬はこのあたりの船着き場に着き、翌3月28日に、三田尻(山口県)に向けて出航して行った。

長浜の町
長浜の町
長浜の案内板
長浜の案内板

龍馬が泊まった富屋金兵衛宅。建て直され新しくなっていた
龍馬が泊まった富屋金兵衛宅。
建て直され新しくなっていた

表示は玄関の横にあった
表示は玄関の横にあった

●長浜大橋(赤橋)

大州を通って瀬戸内海に注ぐ大河、肱川の河口にかかる全長226mの大橋は、欄干が赤く塗られていることから地元では「赤橋」の名前で親しまれている。この橋はバスキュール式道路可動橋で、大型船を通行させるための跳ね橋である。
幅員5.5m、開閉部18m、重量82トン。停電の時も手動で開閉できるようになっている。昭和10年(1935)に完成した。
開通当時は年間約3,500回も開閉したというが、現在は、造船業の衰退や川の状態の悪化で、通過する船舶は皆無だそうだ。ただし、いまでは観光目的で毎日曜日午後1時に開閉するという。
/問い合わせ 大洲市役所長浜支所、TEL 0893-52-0149

龍馬が舟で着いたといわれる古い港
龍馬が舟で着いたといわれる古い港
長浜大橋は有形文化財
長浜大橋は有形文化財

走り、歩き夕暮れになった
走り、歩き夕暮れになった
長浜大橋
長浜大橋



○ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

○高知県、愛媛県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、高知県愛媛県内の営業所リストをご覧いただけます。


高知の観光ガイド「よさこいネット」
「観光」「体感」などのカテゴリ検索のほか、「おすすめモデルコース」や「目的別プラン」なども見られる。
大洲市観光情報
大洲市内のみどころ、宿泊施設などを紹介しているほか、大洲城や長浜大橋などのパノラマビューもある。

取材:2009年12月

※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。