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ギリシャ中部都市ラミアからイオニア海へ
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生誕地を訪ねる

ドライブライン

ラミアからイオニア海へ

カメナブーラの海岸。ホテル、レストランが多い アテネから北西に約200km、古代では世界の中心であり神託の聖域デルフィ遺跡から2,000m級の山々を越えた北、約150kmにあるラミアは、綿花や穀物の取引がおこなわれるエーゲ海に接するギリシャの素朴な地方都市だ。ここ数年アクロポリス・ラリー(世界ラリー選手権)のスタート地として、今年も賑わいを見せた。
ラミアの町を取り囲む山岳地帯で行われたラリーで、コースを追って行く間にガイドブックにも載っていない名所や地元の人もその歴史や背景を知らない遺跡に出会った。またラリー終了後、ラミアから中部の山岳地帯を抜けて、西側のイオニア海のレフカダ島へと走った。
そこには明治の日本を紹介したラフディオ・ハーン(小泉八雲)の生家のあることを知り、クレオパトラとアントニウス対オクタビアヌスのローマの覇権を賭けた天下分け目の戦いの海を見た。

1回目はラミアからイオニア海まで、2回目は日本人には縁があっても、ほとんど紹介されていないレフカダ島一周をお届けする。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
ラミア(Lamia)−カーペニシ(Karpenisi)−アグリニオン(Agrinio)−アムフィロチャー(Amfilochia)−ボニッサ(Vonitsa)−レフカダ(Lefkada)
全行程 約300km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>



●ラミア(Lamia)とその近郊

ラミアの町の興りは古く、紀元前3700年ころの青銅器時代には最初の城ができたという。そのラミア城は町を見下ろす高い丘の上にある。前320年代には「ラミア戦争」でアテネと戦うなどかなりの力を持った都市国家だった。やがてローマの支配を経て、近世(1833)にオスマントルコに占拠されるという歴史がある。
城からの眺めはよく、ラミアの町を一望できる。日本のあるガイドブックによれば「家々の屋根にコウノトリの巣が目立つ」とあるが、それはもう十数年もの前のこと。いまは巣はおろかコウノトリの姿さえみあたらない。

ラミア城
ラミア城
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ラミアの町の広場。後方はラミア城
ラミアの町の広場。後方はラミア城

ラミア城の城壁
ラミア城の城壁
ラミア城博物館入り口には発掘品が置かれていた
ラミア城博物館入り口には
発掘品が置かれていた


カメナブーラの海岸。ホテル、レストランが多い
カメナブーラの海岸。ホテル、レストランが多い
焼いた蛸にオリーブ油をかけて食べる
焼いた蛸にオリーブ油をかけて食べる

●古代の橋と温泉

ラミアより約13km、南に古代水道橋のようなアーチ型の橋が半ば埋もれたように山に向かって延びていた。橋の名は「アラマレス」だと地元の人が教えてくれた。
近くには乾いた土地には珍しく、かなり水量のある小川が流れていた。橋の延びる山の下に数台の車が駐車していることに気がつき、「何かある」と思って行ってみると、なんと大きな池に20人くらいの人が入っていた。単なる水遊びかと様子を眺めていると「温泉だよ、肌がつるつるになるし体にもいいんだよ」と年配の男性が湯の中から叫ぶような大きな声で話してくれた。池に手を入れてみた。湯は38度くらいでややぬるいが、よく見ると、ところによってぶつぶつと自噴し、また山の岩溝から湯が湧き出ていた。
古代都市には大衆浴場があった。この水道橋は湯を運んだのか。近くには都市跡はないが、「ずーと昔からここに温泉はあった。古いことはどうでもいいから入っていきなよ」という。日本にも千人風呂などという川をせき止めたような露天風呂はあるが、規模の大きさと全体が安定した温度のこの露天風呂は、比べようもない。

古代温泉を引いたアラマレスの水道橋
古代温泉を引いたアラマレスの水道橋
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ラミア近くの露天風呂。塩分を含み体が浮く。無論、無料だ
ラミア近くの露天風呂。
塩分を含み体が浮く。無論、無料だ


お湯の川。瀞となって深さは胸まである
お湯の川。瀞となって深さは胸まである
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ところがこれに驚いてはいられない温泉が、約3km南の岩山の麓にあった。
幅2mほど落差4mほどの湯の滝がごうごうと流れ落ち、苔に濡れた岩を下り、激流となって流れ下る。草津温泉自慢の湯畑もかすむ。湯の滝も川も適温で自由に入って遊ぶことができる。ここには客のための内湯や小さな個室もあり料金は2ユーロだった。
近くの林のなかにはホテルもあったが、閉鎖されていた。アテネ−ラミアを結ぶ高速道路ができたため、人は素通りしてしまう。風呂好きだった古代人ほど現代のギリシャ人は温泉好きではないようだ。

内湯から30mほど奥に“源泉”というのがある。底から湧く湯は泡立ち、岩の隙間からとうとうと溢れ出る湯は42度という。源泉には金網が張り巡られていたが、大きく破られた金網は、もう何年も修理された様子もなく、おおらかな人々は禁じられた?源泉で、おおらかに湯浴みを楽しんでいた。

アザミの花も大きい
アザミの花も大きい
綿毛のような花をつける木
綿毛のような花をつける木
サボテンの花
サボテンの花

サボテン
サボテン
芥子の花
芥子の花
遺跡の中に咲く可愛い花
遺跡の中に咲く可愛い花

●スパルタ・レオニダス王の像

ラミアから約15km、温泉の近くの幹線道路沿いに立つ古代戦士の像。紀元前480年、スパルタの王、レオニダスが、国の自由を守るため300名のスパルタ兵とテスピア人の兵700名という小さな軍で100万ともいわれたペルシャ軍と「勝利か死か」とここテルモピレスで戦い、全滅したレオニダス王の像だ。
その後、ペルシャはアテネを侵略し、さらには史上に残る「サラミス海戦」へと続く。
このときのペルシャの王クセルクセスが送った兵は、後にヘロトドスの“歴史”によると170万と記されている、と像の説明版には書かれていた。
スパルタのレオニダス王の像。ペルシャの大軍に1,000人で立ち向かい全滅した
スパルタのレオニダス王の像。ペルシャの
大軍に1,000人で立ち向かい全滅した


山岳路では羊の群れが道を占拠
山岳路では羊の群れが道を占拠
その他、ラリーのコースの山道沿いには古代の都市跡や城跡などの残骸が無造作に転がっていた。そのひとつ、ラミアからアテネへ向かって20kmほどの海岸線から約15分の山の頂付近、メンデニツァ(Mendenitsa)に古代の石垣がある。羊飼いの老人が道案内をしてくれなければ、この石垣は見つからなかっただろう。
エーゲ海を見下ろす標高300mほどの小山の稜線にそって崩れた石垣の巨石は谷へといくつも転がっていた。詳しい学術調査の跡もなく、もちろん発掘された形跡もない。

メンデニツァの古城(ラミア南西約60キロ)
メンデニツァの古城(ラミア南西約60キロ)
メンデニツァの古城
メンデニツァの古城

城趾から山へ向かう道路を見る
城趾から山へ向かう道路を見る
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発掘もされず崩れる古代ポリスの城壁
発掘もされず崩れる古代ポリスの城壁

ギリシャ、トルコまたエーゲ海周辺には2,000余もの古代都市跡があるという。そのほか砦や城塞などは数限りがなかっただろう。こうした遺跡の歴史を解明するのには、まだまだ時間が必要だ。

●レフカダ(Lefkada)への道

中央山地への道。綺麗に舗装されたところもある
中央山地への道。
綺麗に舗装されたところもある

ギリシャの総面積は日本の3分の1強で、その20%がエーゲ海に浮かぶ島々からなっている。イオニア海の島々を含めればさらに島の面積は2〜3%増しだ。
島の数は約3300、そのうち人の住む島は200余り。アテネのあるアッティカ地方、中西部、マケドニア、トラキア地方ペロポネソス半島の陸地も大半が山岳地だ。
今回のラミアからレフカダまでの長く険しい山岳路は、その交通手段の多くが船だったことがうなづけるものだった。

ラミアを出て西へ最初の約80kmは、ギリシャでは珍しいほどの沃野で緑の畑の中を道は続いていた。
ティムフリストス(Tymfristos)の村を過ぎると道は急勾配、急カーブ、そして山肌を縫うように連なる道は、いくつもの山を越える。ティムフリストス村ではラミアでは目にすることのなかったコウノトリを見た。電柱に人工的に巣づくりをしたもので、いまではこんな山の中で“保護”されていた。
コウノトリはギリシャでも珍しくなった
コウノトリはギリシャでも珍しくなった

やっと辿り着いたカーペニシ(Karpenisi)の町は尾根や山肌にへばりつくように家々が建つ小さな町だった。それでも数軒のレストランがあり、午後4時、やっと遅い昼食にありついた。炭火で焼かれた豚肉は強い臭いの野性の味がした。
カーペニシからは、まるで飛行機が高度を下げるようにどんどん谷へと下ると、樹木の少ない乾いた山のどこから、これだけの水を蓄えているのか、と思うほどの大きな湖にであった。こうしてアグリニオン(Agrinio)の町を経由してレフカダへと走り続けた道のりは約300km、昼食時間を除いて7時間もの走行を強いられた。
もしかしたら、古代人の残した史跡の一つでもあるかと思ったが、徒歩での山越えよりはるかに早く安全な道は海にあったことを改めて知る思いであった。それにしてもギリシャの中央や北部の山岳地帯は冬は降雪もまれではないこんな山の中に、村や町があるのには驚きだった。

中央山地の山村
中央山地の山村
山岳地帯には人造湖が多い
山岳地帯には人造湖が多い

どこの村にも中心部に教会がある
どこの村にも中心部に教会がある
山岳路の所々に水場がある
山岳路の所々に水場がある

●ニコラオス(Nikolaos)

地図の上では大きな湖かと思えるアンバラキコス(Amvrakikos)湾は狭い海峡でイオニア海とつながっている。湾内のボニッサ(Vonitsa)の町から小さな峠を越えるとレフカダ島を間近に望むイオニア海だ。

堤防(左)の遙か先に半島。この合間が海戦の舞台だった
堤防(左)の遙か先に半島。
この合間が海戦の舞台だった

ここは紀元前31年9月2日 クレオパトラとアントニウスが率いる連合艦隊がローマのオクタビアヌス(後の帝政ローマ初代皇帝アウグストゥス)と天下分け目の決戦を行った「アクティムの海戦」の海が目前に広がる。
感動!しかし、記念碑などなにもない。地元の人に尋ねたが、答えは「このあたりの海だよ」というばかり。そこでレフカダ島の図書館へクルマを走らせた。ギルシャ語で書かれた専門書を開いてくれた。

「アクティムの海戦」はローマの世界支配をめぐりアントニウスとオクタビアヌスの対決の総決算となった。
アントニウスは地上戦をという部下たちの話には耳をかさず、クレオパトラが主張する海上戦で戦うことを決意。彼の投射機を搭載した220隻の重装備船に対し、オクタビアヌスの260隻の機動力に富んだ軽装備船との戦いの勝敗は明らかだった。
敗戦を知ったクレオパトラは、60隻のエジプト艦隊とともに撤退。アントニウスは自殺。エジプトに戻ったクレオパトラも翌紀元前30年に自殺(一説には毒蛇にかまれた)、長いエジプト王朝の幕を閉じた。

レフカダ近くに中世の城があった
レフカダ近くに中世の城があった
レフカダ島のすぐ前にある中世の城跡
レフカダ島のすぐ前にある中世の城跡

青い空、紺碧の海、浜辺にビーチパラソルの花が咲くこの海で遠い昔の決戦のドラマがあった。その事実を思うだけでも感動の連続だった。
レフカダ島の入り口には、歴史もずーと下った中世の城跡が手入れもされず草の中に眠っていた。



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ギリシャ イオニア海・レフカダ島(2005/9)
特別編・ギリシャ写真集 夏のエーゲ海(2003/6)


ギリシャ政府観光局
旅の基本情報はじめ観光スポットやギリシャ料理の紹介、主な遺跡や博物館のリストなどが掲載されている。

取材:2005年7月