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イタリア・アッピア街道を走る1



「ローマ人の物語」(塩野七生著 新潮社刊)が静かなブームだ。私(取材者)も古代ギリシャ・ローマ史は大好きで、もちろん愛読者のひとりである。
この本が出版されるずっと昔から古代ギリシャ・ローマの歴史書を読んでは、その地を訪れ数々の遺跡巡りをしてきたが、今回は「ローマ人の物語」を通してとても興味を惹かれた古代ローマの道“アッピア街道”を辿ってみた。
ローマから街道の終点であり起点でもあるアドリア海に面したブリンディシ(Brindisi)まで約750kmを、一週間かけて古代の道とそこに残る町や村を訪ねながらの旅だった。
また、イタリアの長靴の爪先からシシリアへ渡り、遺跡などを訪ね、島をほぼ一周するという欲張り旅行をした。
イタリア編として、これから何回かに分けて紹介していきたい。




ローマ(Roma)−アルバーノ湖(Albano)−ネミ湖(Nemi)−テラシーナ(Terracina)
約90km




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●アッピア街道

“すべての道はローマに通ず”といわれたローマへの道。ラベンナへと向かうフラミニア街道、ピサ方面へのアクレリア街道など多くあるが、古代ローマ最初のインフラ事業ともいわれる街道は、紀元前312年当時の財務官アッピウスによって敷設され、その名をとってアッピア街道と呼ばれた。
単に人や馬が歩けるというものではなく、政治、軍事、行政上の必要から、当時の車である馬車が往来するための道として整備された。それはできるだけ直線に、また橋をかけ、トンネルを掘り、水はけまでもが完備された平坦な石畳を敷いた舗装道路だったのである。
はじめはローマから100kmほどのテラシーナまでだったが、間もなくナポリの北約30kmにあるカプア(Capua)へと延び、紀元291年にはカプアの東約50kmのベネヴェント(Benevento)を越えてイオニア海の町ターラント(Taranto)、そして、ブリンディシ(Brindisi)へ。ここからアドリア海を隔ててギリシャへ通じる海路もある。

現在は往復各2車線の立派な舗装道路だが、地図や標識にはVia appiaと表示されている古代街道に沿った道がある。
すべてがオリジナルではないが、全行程約750kmの街道沿いには、城や要塞やそれらの石積み城壁などの跡を残す町や村がある。
それは、古代の石積みの上に建つ教会であったり、城壁などをそのままを利用した民家だったりするものもある。もちろん立派に史跡として保存されている石柱や石畳、彫刻、そのほかの建造物もある。そして、そこには「大昔からこの地に住んでいる」という人々の生活もある。

ローマから街道すべてにマイルを刻む大理石の円柱が建てられていた。
1ローマ・マイルは約1.5km。古代ローマ人は1日約60kmを歩いたという。
いくら整備された道とはいえ、この幹線道路は人と車(馬車)で埃がひどく、その上、人や馬のせいで沢山の虫がたかる。さらに盗賊や旅篭での不当な料金に泣かされたり、また娼婦に大金を巻き上げられたり、と古代の旅人にとってはかなり危険な街道だったらしい。
そのため、長い道のりを行く時は同行者を探したという。絶対的に量が少なかった宿屋の代わりに、金持ちや身分の高い人たちは従者か奴隷をお伴に寝具やテントを持参。また今風にいえば、寝台車の設備を施したキャンピングカーのような車も少なくなかった。
こうして街道をローマへ、ローマから地方へと兵士や商人が忙しく行き交い、学者や政治家は旅の間に講義や演説などをして歩いた。
街道沿いには今も当時の旅人が利用した水場が残る。(写真)

現在ローマ近郊のアッピア街道は修復工事中で車の進入が全面禁止。徒歩でのみ見学できる。
付近の駐車場はサン・セバスティアーノ教会前だけだが、街道と交差する道脇にはところどころ駐車できるスペースがある。

●街道のはじまり

古代ローマのカラカラ浴場、一度に1,500人も収容したという巨大な建物跡前のカラカラ通りの南にラティーナ門が見えてくる。
ラティーナ門の左から道は3本に分れる。その真ん中にあたる木立の道が長い道中のはじまり、アッピア街道の入り口だ。最初に出会うマイル石柱の近くには“Via Appiaantica”(旧道)の標識が立つ。
いよいよ街道に第一歩を踏み出す。

街道のはじまりは教会と墓の遺跡から。それは“生きること、すなわち死ぬこと”という古代ローマ人の死生観からくるもので、生への執着は希薄であったとか。裏を返せば“死もまた生”というわけである。
死後も大勢の目に触れ、また大勢の人々とともに過ごす、といったところから最も人の多く行き交う場所として街道があった。
最初に出会う教会は暴君として名高い皇帝ネロ(紀元54年即位)の迫害を受けたキリスト教受難の時代ペテロとキリストが再会した場所に建つというドミネ・クォ・ヴァディス教会だ。ここより第2マイルの石柱の跡を行けば、ドミティッラとサン・カッリストのカタコンベがある。
カタコンベとはキリスト教時代まだ禁圧されていたころ(1〜4世紀)、迫害を受けて殺された殉教者たちを葬った墓。地下に掘られた長廊式の共同墓地だ。

●サン・セバスティアーノ教会

間もなくサン・セバスティアーノ教会へ出会う。教会前には駐車場があるので、ここにいったん車を止めて徒歩で見学したい。
この教会は4世紀半ばに建てられたものだが、聖ペテロとパウロが一時期葬られたというカタコンベは、教会よりも古く1世紀のもの。地下には全長12kmにも及ぶカタコンベがある。

サン・セバスティアーノ教会の向かいにある広場は4世紀のマクセンティウス帝の競技場だ。
多くの観光客はそのまま通り過ぎていってしまうが、長さ520mもある細長い楕円形で、1万人もの観客を収容したという。
夏草に覆われた競技場は、人影もなく静まりかえっているが、いまにも戦車競技の馬蹄の響きが聞えてくるような気がしてくる。この競技場に隣接する金網ごしに見える建物は、マクセンティウス帝の息子ロムルスの廟だ。現在は工事中で中には入れないが、近い将来博物館として公開される予定。

ローマ近郊のアッピア街道でひときわ目につく石造りの円形の建物は、第一回三頭政治(前60年、カエサル、ポンペイウス、クラックスによる)のひとり、クラックスの息子の妻であるチェチリア・メテッラの墓として建てたもの。現在は修復中で中に入れないのが残念だ。

ここから先は、著名人や政治家たちのヴェラ(別荘)や墓、それに英雄のレリーフなどの遺跡を次々とみることができる。だが、このあたりまで来ると、発掘整備もあまりされていない。
また、いま2000年対策というと私たちはコンピュータの誤作動問題のことを思うが、ローマではキリスト生誕2000年を迎える準備のことである。カトリックの聖地ローマは世界中の信者で賑わう。その2000年を目指して、市をあげて道路や遺跡を修復中なのである。このアッピア街道も例外ではない。
道端のマイル柱は、現在はキロメートルで表示されている。(写真)

●街道の松並木

アッピア街道といえば、街路樹としての大きなまつぼっくりの唐傘松の並木が有名だが、ローマ時代からあったわけではない。年代はさだかではないがローマ帝国崩壊後に植えられたものだという。その間、植え替えられた松もあるというが、樹齢何百年にもなる大樹もあり、長い人間のさまざまなドラマを見つめてきたと思うと、見上げる松並木に一入の思いが湧く。
しかもこの松並木は、これからブリンディッシまでの長い街道沿いのところどころに、いまも残されている。そういえば日本のかつての幹線道路、「東海道」にも松が植えられ、今も旧道には待つ並木がある。国も時代もまったく違うが、日本人にはとても親しみやすい松並木である。

●アルバーノ湖とネミ湖

街道をローマから30kmほど下ったところにアルバーノ湖(写真)とネミ湖という2つの火口湖がある。これらの湖を周遊する道はゆるやかな丘の上にある。ここはローマ時代から皇帝や貴族たちの避暑地だったところ。いまも古い別荘や城が多く残っている。
またローマの地名の由来でもあるロムスとレムスの双子の兄弟が生まれたところでもある。またネミ湖には巨大なローマ船が沈んでいた。山の上の静かな湖面に船を浮かべ、ローマ人たちは豪華な船上パーティを楽しんでいたらしい。
20世紀初頭、ムッソリーニの時代にネミ湖の水をくみ上げて、二隻のこの巨大船を湖底から引き上げた。この船は湖畔に作られた博物館に納められていたが、第二次世界大戦の戦火をあびて二隻とも焼失、いまでは写真しか残っていない。だが、2000年をメドに船の複製を完成させるそうである。

●最初の幹線道路

湖を下ると、これより約60kmは、かつて出来る限り直線に造ったという本来のアッピア街道らしい姿で、海に面したテラシーナ(Terracina)まで続く。このローマからこのテラシーナまでの約100kmの道が完成したのが、アッピア街道のはじまりである。


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取材:1999年9月