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イタリアの旅(1)
フィレンツェからラヴェンナ経由リミニへの道

ドライブライン

フィレンツェ最古のヴェッキオ橋 イタリア行きを決めたのは、ユリウス・カエサルが渡ったルビコン川を見るのが大きな目的だった。紀元前49年1月12日、ガリア平定後、元老院によて国賊扱いされたユリウス・カエサルは「将軍であっても軍団を率いてローマ領に入ってはならない」と定められていた国境のルビコン川をわたった。「賽は投げられた」という有名な言葉はこのときに発せられたという。歴史の流れを変えた場所、ルビコン川とはどんな川なのかという一般受けはしないが、行って見たいというところからはじまった。

フィレンツェ空港からレンタカーで走りはじめた旅は、中部イタリアから南部、再び中部を経て北部イタリア、オーストリア・アルプスへと、1ヶ月半、約7,000kmにも及ぶドライブとなった。
世界遺産となった都市や村をはじめ、名のない田舎道の片隅に古代ローマや中世の傾いた建物、水飲み場、道路標識や石畳などがあり、かつての街道沿いに村や町がひっそりと点在する。
一方、縦横に網羅された高速道路や整備の行き届いた現代の道を、国境のないEU連合間を大型トラックが、数珠繋ぎ状態で行き交う。まるでベルトコンベアのように。
現代の輸送目的の道路を避けながら、出合ったイタリアの自然や歴史遺産、食べ物、人々の生活などドライブを通して、長期間にわたってゆっくり紹介していきたいと思う。


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ドライブライン

<コース>
フィレンツェ(Firnze)−(S67号線)−ラヴェンナ(Ravenna)−(S16号線)−リミニ(Rimini)
行程 約200km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

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●フィレンツェ(Firenze)

「花の都」の代名詞とともに語られるフィレンツェは、1400年代にメディチ家の庇護のもと、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ、ボッティチェッリなど芸術家たちが競い合いルネッサンスの花が咲いた美しい都。1982年、アルノ(Arno)川にかかるヴェッキオ橋から北、東西に広がる旧市街全体がユネスコの世界遺産に登録されている。

フィレンツェを流れるアルノ川と市街
フィレンツェを流れるアルノ川と市街

古代ローマ時代、ユリウス・カエサルが執政官だった紀元前59年、国有地を農地として貸与するという法律が制定された。この制度で、退役兵士たちに退職手当として土地が与えられたことにより、ローマ帝国内に多数の植民地が建設された。
その一つであるフィレンツェのローマ時代の呼び名はフロレンテェア。名前の由来はラテン語のフローレンス「花ざかり」とか「繁栄」などだが、花の女神「ルーディ・フロレアレス」からともいわれている。

3世紀、ローマの衰退とともに、戦争や政権の交代が繰り返される混乱の時代にあっても、フィレンツェの経済は発展し、商業都市としての成長を続けていた。この間、13世紀には、詩聖ダンテが活躍、やがて再度のメディチ家トスカーナ大公国の支配のもと、15世紀から16世紀にかけてルネッサンスの巨匠の時代を迎える。
その巨匠のひとりミケランジェロが亡くなる3日前には、フィレンツェの郊外に天文学者ガリレオ・ガリレイが生まれるなど芸術、科学など18世紀に至るまで繁栄が続き、1865年から数年間、フィレンツェは新生イタリア王国の首都となった。
この2000年にも及ぶ、長い歴史が刻まれたフィレンツェの風景を写真でお伝えしよう。

●ドゥオーモ(Duomo)

ミナレットから見るドゥオーモ
ミナレットから見るドゥオーモ
ジョットの鐘楼
ジョットの鐘楼

フィレンツェの象徴でもあるドゥオーモはサンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa・Maria del Fiore花の聖母寺)とも呼ばれている。1296年に建設がはじめられてから約200年後の1468年に完成された。白と緑とピンク色の大理石で装飾されたイタリア的ゴシック建築。

内部には中央にフィレンツェの初代司教「聖ザノービ」の棺や新聖具室には「キリスト昇天」と「キリストの復活」の色彩テラコッタが載せられている。
見上げるドゥオーモ正面
見上げるドゥオーモ正面

ドゥオーモ正面
ドゥオーモ正面
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ドゥオーモの天井画
ドゥオーモの天井画
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ドゥオーモのトップ。400段ほどの階段を上る
ドゥオーモのトップ。400段ほどの階段を上る
ドゥオーモ正面に座り込む人。観光疲れで夕方になると倍増する
ドゥオーモ正面に座り込む人。
観光疲れで夕方になると倍増する


茶褐色のドーム形屋根の脇にそびえるジョットの鐘楼(Campanile di Giotto)は高さ85mの塔だ。ドゥオーモの屋根の周りクーポラ(Cupola)と同様500段近い階段を上り塔の上に出ることができる。どちらもフィレンツェの町を一望できる。ともに6ユーロ(2008年9月現在1ユーロ約150円)。

鐘楼からの展望(左はドゥオーモ)
鐘楼からの展望(左はドゥオーモ)

●サン・ジョヴァンニ洗礼堂(Battistero San Giovanni)

ドゥオーモの前にあるのは11〜12世紀に建築されたフィレンツェで最も古い聖堂だ。フィレンツェ独自の建築様式で八角形で三層からなり、屋根も八角形のピラミッド型をしている。この洗礼堂のみどころは、南北と東の扉を飾るブロンズのレリーフ装飾だ。南側の扉は最も古く1330年代、A・ピサーノ作『洗礼者ヨハネの生涯』が描かれている。
北側の扉『キリストの生涯』は1401年のコンクールでL・ギベルティが制作したもの。
そして、東側の扉も北側と同じ作者だが、旧約聖書からの10の場面は、すでにルネッサンスの息吹を感じさせており、後にミケランジェロが『天国の門』とよんで称賛した。現在の扉は残念ながら本物ではなくレプリカだ。
サン・ジョヴァンニの洗礼堂。八角形だ
サン・ジョヴァンニの洗礼堂。
八角形だ


洗礼堂の扉は注目の的
洗礼堂の扉は注目の的
洗礼堂の天井画
洗礼堂の天井画

●ウッフィツィ美術館

1559年、当時は行政機関を一ヶ所にまとめるという目的で建造された。ウッフィツィはオフィスという意味。上階をギャラリーとして、メディチ家所有の美術品を収めたことが美術館の始まり。イタリア絵画の傑作を集め、それぞれの時代や作者による作品などを45室に収める世界有数のコレクションを誇る。
なかでもフィレンツェで活躍したラッファエッロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの作品の他、ボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス」といった名だたる作者の絵画を見ようと、観光客が世界各地から訪れる。
ウッフィッツィ美術館入り口
ウッフィッツィ美術館入り口

商業の象徴秤、そして剣
商業の象徴秤、そして剣
美術館を入ったところ。このあとは撮影禁止
美術館を入ったところ。このあとは撮影禁止

いまや、豊かになったEU加盟国や新興国の人々も大勢訪れるようになり、フィレンツェに限らず、観光地は人であふれかえっている。博物館、美術館などはどこも長蛇の列。広場も路地も観光客とわかる老若男女でいっぱいだ。
世界の有名な博物館、美術館では入場制限があり、予約制度を設けている。あらかじめ日本を出る前にインターネットによる予約をしていたので、長い列に加わることがなかったが、時間のない人は予約なしでは、せっかく美術館の前にいても入れないこともある。

●ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)

ローマ時代フィレンツェはアルノ川をまたがって南北を結んでいたが、橋はこのヴェッキオ橋一本だけだった。その後、産業が発達し1218年にカッライア橋、続いて1200年代に三本の橋が架けられた。
ヴェッキオ橋は1333年の大洪水で流され、1345年に現在の橋がつくられた。橋の上には肉屋や皮なめしなどの仕事をする店が並んでいたが、悪臭がひどかったことから強制的に撤去され、16世紀には金細工や宝石商などに替えられ、きらびやかな店で賑わい現在に至っている。

フィレンツェ最古のヴェッキオ橋
フィレンツェ最古のヴェッキオ橋
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ヴェッキオ橋は橋の上に商店が並ぶ
ヴェッキオ橋は橋の上に商店が並ぶ

●サンタ・クローチェ教会(Santa Croce)

1228年に創設され、本堂は1385年に完成。内部は3廊式で大きな明るい空間である。この教会は多くの文化人が埋葬されることを望んだ。ミケランジェロの墓、ダンテの記念碑、その前にはガリレオ・ガリレイの墓をはじめロッシーニ、マルスッピーニの墓などがある。「カステッラーニ礼拝堂」は14世紀のフレスコ画で飾られている。メディチ家の礼拝堂の他、いくつもの礼拝堂もある。

ライトアップされたサンタ・クローチェ教会
ライトアップされたサンタ・クローチェ教会
ミケランジェロの墓
ミケランジェロの墓

ダンテの記念碑
ダンテの記念碑
ガリレオの墓
ガリレオの墓

この他、ゴシック様式でありながらフィレンツェ独自のスタイルを確立したサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Santa Maria Novella)、1299年に建設がはじまったヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio )は1530年にトスカーナ公国が出現する前までフィレンツェ共和国の政庁でもあったところと、みどころがまだまだ数多くあり、3日以上滞在したいところだ。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(芝生の工事中だった)
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
(芝生の工事中だった)


ヴェッキオ宮殿と時計台
ヴェッキオ宮殿と時計台
ネプチューンの噴水。白い巨人といわれる像が立つ
ネプチューンの噴水。白い巨人といわれる像が立つ

路地いっぱいを走る観光バス
路地いっぱいを走る観光バス
昼時の街頭レストラン
昼時の街頭レストラン

古い街特有の狭い路地
古い街特有の狭い路地
路地には駐車バイクの列
路地には駐車バイクの列

フィレンツェの町からラヴェンナ(Ravenna)へはルートS67を辿る。約120km、山越えの道であった。

●ラヴェンナ(Ravenna)

ヴェネチア同様、干潟を干拓して港を開き、紀元前88年にはローマのアウグゥスが軍港として使用したことが町のはじまり。402年、西ローマ皇帝ホノリウスが、ミラノからこの町へ西ローマ帝国の首都を移したが、西ローマ帝国が滅びた後は、476年テオドリックによって東ゴートの首都が置かれたところ。8世紀、東ローマ帝国の北イタリア統治で終焉を迎え、以後、地方の小都市となった。
ラヴェンナ旧市街ポポロ広場
ラヴェンナ旧市街ポポロ広場
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5〜6世紀、ビサンツ帝国の支配の下、初期キリスト教の聖堂や霊廟など建造物が多く建てられた。現在残されたうち8つが1996年に世界遺産に登録されている。外観は質素だが、内部はビサンツ帝国がもたらした壮麗なモザイク装飾で埋め尽くされた初期キリスト芸術の華を見ることができる。

美術館のモザイク画
美術館のモザイク画

●サン・ヴィターレ教会(San Vitale)

東ローマ帝国支配下であった548年に完成した教会。八角形の聖堂の内部は壁から天井までびっしりと華麗なモザイク画で埋め尽くされている。祭壇の背後の壁には、中央に皇帝ユスティアヌスが見下ろし、キリストの祭壇画でありながら中心は皇帝であり、周りには大司教や聖職者たちとともに、兵士が並ぶものや皇妃テオドラのモザイク画などもある。
サン・ヴィターレ教会の門と尖塔
サン・ヴィターレ教会の門と尖塔

サン・ヴィターレ教会のモザイク画
サン・ヴィターレ教会のモザイク画
サン・ヴィターレ教会の天井画
サン・ヴィターレ教会の天井画
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●ガッラ・プラキディア廟(Galla Placidia)

5世紀半に建立されたローマ皇帝テオドシウス1世の娘ガッラ・プラキディアの霊廟。円天井は黄金の星が燦然と輝く。
細い窓にはガラス代わりに白と薄茶色の石膏が使われている。石棺の中にはプラキディアの遺体が安置されていたが、今は空といわれている。
ガッラ・プラキディア霊廟内部
ガッラ・プラキディア霊廟内部

その他、ネオニアーノ(Neoniano)礼拝堂 、サンタポリナーレ・ヌオヴォ(San Apollinare Nuovo)などがある。(ドライブガイド「北イタリア・エミリア街道」(2002年9月)を参照)
また有名なモザイクのある教会の5ヶ所共通チケット(8.5ユーロ)がある。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会
サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会
サンタポリナーレ・ヌオヴォのモザイク画(入って右側、男性殉教者26人)
サンタポリナーレ・ヌオヴォのモザイク画
(入って右側、男性殉教者26人)


左側、聖母子に捧げる22人の聖女
入って左側、聖母子に捧げる22人の聖女
こうしたモザイク画は多くの教会にある
こうしたモザイク画は
多くの教会にある


ラヴェンナをあとに、いよいよ紀元前49年1月12日、ユリウス・カエサルがローマへと向かうため渡ったルビコン(Rubikone)川を探しにルートS16号線を、リミニ(Rimini)へと車を走らせた。


イタリア旅行情報サイト ジャパン・イタリア トラベルオンライン
イタリア旅行に関する情報が充実。地域別検索で州ごとのさまざまな情報を見ることができる。

取材:2008年9月