ニッポンレンタカーHOME > 旅のお役立ちガイド > ドライブガイド > 静寂な杜の福井と華やかな伝統の町金沢(1)

静寂な杜の福井と華やかな
伝統の町金沢(1)

ドライブライン

柱状節理がくっきり(東尋坊) 福井県は日本の何処にあるか分かりにくい県のひとつとされているという。確かに琵琶湖の北、敦賀市を真ん中に東西に広がり、東は北陸、西は京都ともいえる位置にある。県境は複雑で長い。
その福井県の西部には、魚介類の豊富な若狭湾から京の都に魚を運んだ鯖街道沿いに、国宝の明通寺、重文の妙楽寺や宿場町など貴重な文化遺産が多くある。東部もまた、静寂な社に、七堂伽藍を中心に大小70余もの堂宇の棟が並ぶ永平寺をはじめ新田義貞の墓所、県内最古の民家などもある。とくに永平寺の鐘は毎年、大晦日から年明けにかけてテレビの画面を通し、全国に荘厳な除夜の鐘を響き渡らせる。一度は訪れて見たい寺の一つである。
さらに柴田勝家が築いた丸岡城、北陸の三大祭りである「三国祭」が行われた湊町三国は景勝地東尋坊へと続く。変化に富んだ海岸線を、今回は福井市から、いまも花街の三味線の音が聞こえる古都金沢へ車を走らせてみた。


サムネイル1 サムネイル2 サムネイル3 サムネイル4 サムネイル5 サムネイル6

ドライブライン

<コース>
福井市−(国道416号線)−永平寺−(国道364号線)−千古の家−丸岡城−称念寺−あわら市−三国−東尋坊−(国道8号線)−安宅の関跡−(北陸自動車道小松I.C.)−金沢市街
行程 約250km

ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>



●永平寺

福井市から国道416号線のトンネルをくぐり、案内版に従って約30分、大佛寺山(標高807m)の麓の杜に大本山永平寺はある。今から約760年前、寛永2年(1244)に道元禅師により開かれた出家参禅の道場だ。
樹齢700年近いという鬱蒼とした老杉に囲まれた約10万坪といわれる境内には、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、東司、浴室の七堂伽藍の他、大小70余の建物が並ぶ。曹洞宗の大本山その荘厳な佇まいは静寂の中にあった。
永平寺は深い杉木立の中
永平寺は深い杉木立の中

東西南北のそれぞれに天王
東西南北のそれぞれに天王
東方持国天王は修理中でご不在でした
東方持国天王は修理中でご不在でした

見事な天井の絵
見事な天井の絵
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

見事に磨き上げられた廊下
見事に磨き上げられた廊下

山の斜面に建つ七堂伽藍への廻廊は、僧が毎日行う修行の一つ「作務(掃除などの労働や作業)」によってピカピカに磨かれている。
道元禅師は正治2年(1200)京都に生まれ、比叡山を経て中国で坐禅の教えを受けて永平寺を開いた。現在は、曹洞宗の僧侶の育成と檀信徒の信仰の場所となっている。現在は約200人の修行僧がいる。

斜面を生かして伽藍が続く
斜面を生かして伽藍が続く
永平寺の庭と伽藍
永平寺の庭と伽藍

寺院の建物のことを一般に伽藍という。ここは僧侶が修行をする清浄な場所という意味がある。なかでも特に七つの御堂は七堂伽藍と呼ばれ、日常の修行に欠かすことのできないところだ。
多くの建物は昭和や平成に改築または建立されたものだが、山門は永平寺最古の建物だ。中国唐時代様式の楼閣門で寛延2年(1749)に再建され、福井県指定の文化財となっている。

「除夜の鐘」で名高い鐘楼堂は、昭和38年(1963)に改築されたが、重さが5トンもある大梵鐘は、毎朝、昼、夕、夜と一日4回修行僧が撞く。テレビを通して毎年一回、聞き馴れた鐘だが、深山幽谷の中にいつまでも余韻を残して響き、その音色は心を癒す。

昼を告げる鐘が響いた
昼を告げる鐘が響いた
悟った人は皆、同じようなことを考えるのでしょうか
悟った人は皆、同じようなことを
考えるのでしょうか


山門の脇には真新しい立て看板に「歩みよる人には、やすらぎを 訪れる人には、微笑みを 去りゆく人には、幸福を」とあった。群馬県草津町の町民憲章は「歩み入るものに、やすらぎを・去りゆく人に幸せを」である。よく似たこの言葉はどこからと住職に訪ねたら「昔からある仏の教えです」という。
ドイツのローテンブルグ市にあるシュピタール門に刻まれた銘文を、東山魁夷画伯が翻訳したものという。洋の東西心は同じということだろう。

●千古の家

国道364号線から東、山へ続く狭い道を辿ると、集落がある。その中にひときわ大きな茅葺き屋根の民家に行き合う。国の重要文化財の坪川家だ。先祖坪川但馬丞貞純は、源三位頼政の後裔といわれている。およそ700年もの間、この周辺の集落を司る名司の頭として高い格式をもっていた。近年、丸岡町に統合されるまでは、代々村長を務める立場であった。
茅葺きの角屋と呼ばれる張り出しが前後に2つあり、内部の梁や柱は丸刀の手斧を使って仕上げられている。確かな年代はわからないが、昭和43年から44年(1968〜69)にかけて解体、修復されたときの研究から、江戸時代初期の建物で、県内最古の建造物でもある。合わせて坪川家庭園は、山畔を利用して築山とし、その下に小池泉が造られている。約200坪に及ぶ敷地は「さつき」が植えられている。築山の頂上には守護石として3個の立石が組んであり、これは三体の仏像を象徴するもの。県内初の国登録記念物にも指定されている。
/入場料 500円、TEL 0776-67-2111

千古の家と名付けられた坪川家の門
千古の家と名付けられた坪川家の門
どっしりと構えた建物だ
どっしりと構えた建物だ
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


坪川家の囲炉裏
坪川家の囲炉裏
母屋と庭を挟んで蔵。山里にとけ込むような家だ
母屋と庭を挟んで蔵。山里に
とけ込むような家だ


●丸岡城

天正3年(1575)織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を、当時丸岡から4kmの山中にあった豊原寺に向けて派遣、寺坊をことごとく焼き払った。このとき信長は柴田勝家の働きに恩賞として越前の国を与えた。翌天正4年(1576)、柴田勝家の甥である勝豊が丸岡に城を築いたのが、丸岡城である。現在は本丸と天守閣と僅かな石垣を残すだけだが、現存する天守閣の中で最も古い建築である。また、屋根が全部石瓦で葺かれているのは珍しく、後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、城郭建築が初期のものであったことがうかがえる。
昭和9年(1934)に国宝指定されたが、昭和23年(1948)の福井大地震により倒壊。昭和30年(1955)、ほとんどを昔の建材を使い修復再現され、現在は国の重要文化財となっている。

丸岡城(重文)
丸岡城(重文)
福井大地震(1948年)で倒壊。55年に修復・再建された
福井大地震(1948年)で倒壊。
55年に修復・再建された
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


城の天守閣から丸岡市街
城の天守閣から丸岡市街
丸岡城の天守閣から
丸岡城の天守閣から

天守閣の石垣の端に「一筆啓上」書簡碑がある。本多作左衛門重次が陣中から妻に宛送った「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙として有名だ。文中のお仙とは幼少名仙千代のこと。後の慶長17年(1612)〜正保4年(1647)丸岡城の城主となった本多成重である。
城の近くには本多家の菩提所本光院、8代続いた有馬家の菩提所のある高岳寺などもある。
/入場料 300円、TEL 0776-66-0303

●長林山称念寺(新田義貞公墓所)

新田義貞公は鎌倉時代末期、現在の群馬県新田郡新田町(町村合併で太田市)に生まれ育った。正式名は源義貞で元弘3年(1333)僅かな手勢で鎌倉幕府を滅ぼしたが、南北朝の戦いへと発展し京都へ向かった。その後、幾度となく戦いに敗れ、北陸に落ち一時勢いを盛り返したが、延元3年(1338)越前国藤島の燈明寺畷(福井市)の戦いで戦死。遺骸は時の僧によって称念寺に運ばれ葬られた。
新田義貞公は源氏嫡流の名家であり、立派な武将であったことから、称年寺は時の将軍より寄進を受けていた。また天皇家の祈願所にもなり、近世には徳川家や福井藩、明治天皇からも手厚く保護を受けていた。しかし、現在はその面影もなく、参拝に訪れる人も少なくひっそりと静まり返っていた。

新田義貞の墓所・称念寺
新田義貞の墓所・称念寺
明治時代までは手厚く保護を受けていたが…。檀家はない
明治時代までは手厚く保護を
受けていたが…。檀家はない


新田義貞の墓
新田義貞の墓
新田義貞墓所の敷地内の塔
新田義貞墓所の敷地内の塔

新田義貞公の墓所への門
新田義貞公の墓所への門
世に出る前、不遇だった明智光秀の妻の句碑。新しいものも隣にあった
世に出る前、不遇だった明智光秀の
妻の句碑。新しいものも隣にあった


境内には寛永16年(1644)建立されたという九重の石塔や、元禄2年(1689)8月に松尾芭蕉が称念寺に立ち寄ったとき、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」の句碑もある。

●三国神社

毎年5月19〜21日の3日間、北陸を代表する「三国祭」が行われる。各町内が競う豪壮華麗な武者人形山車がみどころ。山車は三国の町内を練り歩く。三国神社周辺の広い地域の道は車乗り入れが規制され、露天、屋台が500mほどの距離の道端や境内にまで並ぶ。本殿建立は延長5年(927)とあるが、天文9年(1540)湊の住人であった板津清兵衛が高柳村より流れ着いた御神体を拾い上げ納めたのがはじまりとされている。神社名は何回か変わったが明治18年(1885)に三国神社と改称した。
拝殿は天保2年(1831)窮民救済のため改築や境内の整備工事がおこなわれている。昔の福祉は民衆に仕事を与えたのである。神社楼門は江戸時代末期から明治にかけて完成したもので、福井県の有形文化財に指定されている。境内には大樹が多く、とくに鳥居の横にあるケヤキは樹齢600年という。

三国神社本殿
三国神社本殿
舟形の神輿。船首はトリをかたどっている
舟形の神輿。船首はトリをかたどっている

三国神社の祭りで町を練り歩く山車
三国神社の祭りで町を練り歩く山車
菊の紋がついた神輿
菊の紋がついた神輿

●瀧谷寺(たきだんじ)

三国町、東尋坊への入り口に、柴田勝家寄進による鐘楼門が建つ瀧谷寺がある。戦国武将の朝倉、柴田をはじめ福井藩、丸岡藩の歴代藩主も祈願に訪れた寺だ。参道の敷石は福井市内で採掘された笏谷石で丸岡城の屋根瓦と同じものだ。雨に濡れると青み帯びた色に変わる。参道には苔むした龍の口から水が流れ、その脇には樹齢600年の老杉があったが、近年枯死したため、伐採されたそうだ。

柴田勝家寄進の鐘楼門
柴田勝家寄進の鐘楼門
玉を咥えた龍の口から水が流れ出る
玉を咥えた龍の口から水が流れ出る

石と苔。静寂な瀧谷寺の庭
石と苔。静寂な瀧谷寺の庭

境内には木造、柿葺の鎮守堂がある。室町時代のもので、国の重要文化財だ。宝物殿には、元来中国古代の楽器で平安時代に造られた国宝・金銅毛彫宝相華文磬や重要文化財の天之図、絹本着色地蔵菩薩像などもある。
/宝物殿 入館料 300円
  TEL 0776-82-0216

●東尋坊

日本海の荒波が打ち寄せる断崖絶壁は、国の天然記念物にも指定された北陸の景勝地。輝石安山岩の柱状節理の巨大な岩柱が約1kmにわたって続く。
柱状節理がくっきり
柱状節理がくっきり
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


東尋坊
東尋坊
東尋坊を離れると昔の漁港に石の常夜灯があった
東尋坊を離れると昔の漁港に石の
常夜灯があった


昔、民に悪さの限りをつくした東尋坊という怪力の悪僧がいた。その東尋坊も美しい姫君に心奪われたが、恋敵の真柄覚念という僧がいて激しく対立していた。ある時、岩場で酒宴を開いていた真柄覚念は、スキをみて東尋坊を断崖絶壁から海へ突き落とした。すると、空は俄にかき曇り、雪と暴風雨が四十九日も続いたとか。それから毎年命日にあたる4月5日は、東尋坊の怨霊が大波と化し、岩壁に激しく打ち続けるという。この岩壁が「東尋坊」と呼ばれるようになった由来である。
東尋坊から一番遠い公共の駐車場は500円。土産屋の呼び込みに負けて入る駐車場では、なにがしかを買わなければならない。選ぶのはあなただ。

●安宅の関跡

東尋坊のある小さな半島を海岸線にそって走ると、間もなく道は国道305号線沿いに北へと向かう。石川県に入ると小松空港に発着する戦闘機の爆音を聞きながら海辺の安宅の関跡へ。長く緩やかな参道を上ると、安宅神社があり、その裏手に関跡があった。

歌舞伎の十八番「勧進帳」の物語。兄の源頼朝に謀反を疑われ追われる義経が奥州へ落ち延びる途中、山伏姿で安宅の関にさしかかる。この関を越えようとしたとき、山伏のひとりを義経に似ていると関守富樫泰家にみとがめられ、弁慶と問答がはじまる。勧進帳とは寺院建立のための資金集めに趣意を書いたもの。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げ義経をかばう、という話は周知の通り。
安宅神社境内の弁慶像
安宅神社境内の弁慶像

安宅の関があった、とされる場所
安宅の関があった、とされる場所
義経に招かれて安宅の関へ
義経に招かれて安宅の関へ

15世紀後期に観世小次郎によって能「安宅」が作られ、天保11年(1840)江戸河原崎家で七世市川団十郎により初演され、今日まで受け継がれている。歴史的には「安宅の関」が実存していたかは疑問とされている。
安宅神社は奈良時代の書物にも登場するというが、いまでは全国唯一の「難関突破」と神社として、受験生や社会人が多く訪れる。



○ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

○福井県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、福井県の営業所リストをご覧いただけます。


福井県観光情報 ふくいドットコム
福井県の観光情報データベース検索やおすすめ観光スポット、季節の観光情報などが掲載されている。
ふくいcityナビ
福井観光コンベンション協会による。福井市のイベントや見どころ、観光ガイドブックなどが見られる。

取材:2008年6月