「坂の上の雲」の舞台・松山市

幕末、1860年代に四国・伊予松山に3人の男子がいた。そして明治が誕生したばかりの頃、3人は次々と東京へ出て学問の道に進んだ。やがて日露戦争で大きな役割を果たした秋山好古・真之兄弟と、短歌・俳句を革新した正岡子規である。
NHKが司馬遼太郎著「坂の上の雲」をドラマ化し、今年から3部構成で3年間、スペシャルドラマとして放映される。そして今年(2009)12月すでに放映がはじまった。
日清戦争・日露戦争と続く激動の歴史は男たちの故郷、伊予松山からはじまり、東京・旅順・東シナ海さらにアメリカへと広い地域に渡るが、ここでは、3人の男たちが過ごした伊予・松山市に残る当時の面影を見てまわった。道後温泉や正岡子規ゆかりの地として松山は人気の観光地だが、「坂の上の雲」によって、秋山兄弟にも大きくスポットライトが当たり観光の範囲が広くなった。

<コース>
愛媛県松山市周辺(その他に東京・根岸)
行程 約30km
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●松山城
「松山や 秋より高き 天守閣」、「春や昔 十五万石 城下哉」と正岡子規が詠んだ松山のシンボル。標高132mの高台に威風堂々と建つ城は、慶長7年(1602)に加藤嘉明の時代から築城がはじまった。加藤嘉明は賤ヶ岳の合戦で七本槍のひとりとして武勲をたてた武将である。しかし、城の完成を前に会津藩に転封。後の寛永12年(1635)から松平定行が藩主となり、明治維新までの235年間松平家によって続いた。
その間、天守は天明4年(1784)落雷により消失したが、安政元年(1854)に再建された。明治の廃藩以後、松平家は大正12年(1923)に城を松山市に寄贈。当時は陸軍省の管轄で、一般市民は立ち入ることができなかった。
昭和に入ってから松山城放火事件や戦時下の空襲で、天守を除くいくつかの建物が焼失したが、現在は残った天守を含む櫓、門など21棟が国の重要文化財として、大切に保存されている。
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132mの天守まで上るのは大変だが、麓から8合目の長者ヶ平まで、ロープウェイとリフトがある。どちらも所要時間約6分。終点から天守閣までは徒歩10分ほどだ。
天守閣からは、松山市内はもちろんのこと、瀬戸内海や中国地方の山並みまで望める。
/料金 ロープウェイ・リフト共通券 往復500円
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 松山城天守から
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●秋山兄弟生誕地
兄・後の陸軍大将・秋山好古、弟・海軍中将・秋山真之兄弟は、兄が松山藩士・秋山平五郎久敬の三男として安政6年(1859)、弟真之は慶応4年(1868)松山城の下、歩行町2丁目に生まれた。
明治維新の嵐の中、貧しい生活環境で育ち、兄は16歳で大阪へ出て師範学校を経て、18歳で創設されたばかりの東京の陸軍士官学校に入学し、フランス留学をした。帰国後は騎兵学校を創立、日清・日露戦争で武勲をたてる。退役後は北予中学(現在の松山北高校)の校長となるとともに、松山同郷会の会長として青少年の教育に尽くし、71歳で没する。
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 秋山兄弟生家
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 秋山好古の像
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 秋山真之の像
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弟・真之は慶応4年(1868)五男として生まれた。正岡子規と小学校の親友で、子規上京後、兄・好古の招きで後を追うように上京、明治23年、海軍兵学校を卒業。日露戦争では連合艦隊作戦主任参謀として、勝利は不可能といわれたバルチック艦隊を滅ぼす。後に郷土の青少年のための錬成道場を創設、財団法人常磐同郷会として、現在も引き継がれている。
生家は平成17年、全国の1万人からの募金で再建された。敷地内には、二人の銅像が建っている。
/入館料 300円、TEL 089-943-2747
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●愚陀佛庵(ぐだぶつあん)
俳句・短歌の革新者として名を残す正岡子規と小説家、評論家、英文学者である夏目漱石の二人が約2ヶ月過ごした下宿を復元・移築したもの。
明治28年(1895)松山中学(現在松山東高校)の英語教師として松山に赴任した夏目漱石の下宿したところでもある。そのころ子規は新聞記者として日清戦争に従軍したが、帰国の船の中で発病し、松山に戻る。子規は旧制第一高等学校時代に同級生だったことから漱石の薦めで、下宿主である漱石が2階、子規が1階で療養を兼ねて生活した。
二番町にあった下宿の建物は昭和20年(1945)空襲で焼失、昭和57年(1982)、松山城内にある現在の場所に復元された。
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 坂の上ミュージアム。 愚蛇仏庵への道にある
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 子規と漱石が暮らした愚蛇仏庵
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●萬翠荘
愚陀佛庵と並んで、城山の南麓の静寂に包まれた中にある。旧松山藩久松家、第15代当主が松山の邸宅として大正11年(1922)に建てたもの。フランス式の西洋館で歴史と格調高い風格がある。県指定有形文化財だ。
愛媛県美術館分館としてミニコンサートや各種文化活動にも使われている。2階の常設コーナーもある。
/入場料 100円、TEL 089-921-3711
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 萬翠荘(この裏に愚蛇仏庵がある) (画像をクリックすると拡大写真を表示します)
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●子規旧邸跡
正岡子規は、慶応3年(1867)藩士・正岡常尚と藩の儒学者大原観山の長女八重の長男として、現在の市内電車松山市駅近く花園町で生まれた。翌年には、現在の湊町3丁目に引っ越し、ここで17歳まで過ごした。家の南側には中ノ川という川が流れ生け垣があった。約180m2の敷地は土塀で囲われ、表門もあったという。子規が3歳の時に出火で全焼、その敷地内に新築した家が子規の記憶した家であった。
「これが、あしの書斎じゃ」と訪れた秋山真之に言ったといい、中学生の少年が書斎を持っていることに真之は驚いたという。この三畳間の書斎が後の「子規堂」として保存された。
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 子規が17歳まで暮らした家の跡。中央分離帯にある
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 子規が日清戦争から戻ったときは 既に墓所だけだったという
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残念なことに、旧邸跡は広い道路となり、真ん中にあるグリーンベルトの狭いスペースに碑が建っているだけだ。生誕地も同様である。近くにあったという母八重の邸宅跡も少し離れた同じべルトの中に碑がある。道路の真ん中にあるとは思いも及ばす、探しあてるだけでも大変だった。
同じ通りの近くには、正岡家累代の墓があったという法龍寺があるというので訪ねた。だが、そこは幼稚園になっていて、寺とは名ばかりの住宅兼寂れた小さな本堂だけだった。かつては同じ場所に、子規が幼少時に通った「末広学校」もあったところだが、偲ぶものは何もない。
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 子規の母親八重の生家は道路中央、 川に沿っている
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●子規堂
正岡家の住居の一部を正宗寺内に復元したもの。当時の「あしの書斎じゃ」といった3畳間に机や本箱が置かれ、遺墨や遺品、写真など子規の資料が数多く展示されている。
建物の正面には子規「旅立の像」があり、境内には子規の理髪塔や高浜虚子の筆塚などの他、現存する最古の軽便鉄道の客車が「坊ちゃん号」と名付けられて置かれている。
/入館料 50円、TEL 089-945-0400
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 子規堂
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 少年時代の子規の書斎
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 子規堂前にある坊ちゃん列車
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 子規堂には漱石の原稿なども 展示されている
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 正宗寺。子規堂はこの左手にある
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 埋髪塔。明治37(1904)年子規の 3周忌に立てられた
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●秋山好古像
伊予鉄道高浜線・松山市駅から約8km、電車に乗ると約20分、梅津寺駅下車となる。夏には海水浴場となる長い砂浜を挟んで、訪れる人の少ない今の季節には場違いな大きな駐車場があった。駅前から徒歩約10分、瀬戸内の美しい海が見渡せる高台の梅津寺公園見晴山に立派な軍服姿の像が建つ。
「明治10年陸軍士官学校、16年陸軍大学を経て騎兵科を志す。20年フランスへ留学。日露戦争では騎兵第一旅団長となり、世界最強のコザック騎兵と奉天会戦で戦い敵の退路を断った」などの経歴が書かれた案内板が立つ。昭和45年(1970)に再建された。
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 秋山好古像。瀬戸内の海に 向かって立つ
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 秋山兄弟の銅像は梅津寺駅の丘上
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 兄弟の銅像は300mほど離れて 立てられている
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●秋山真之像
兄の好古よりさらに山道を約5分上ったところにあった。
「15歳で上京、親友の正岡子規と下宿しながら、東京大学予備門に進学したが中退し、後に海軍兵学校に入学し、同校を首席で卒業。日清戦争をへてアメリカに留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。
日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍。日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍伝統といわれる「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、戦局の大勢を決した」と案内板にある。
また「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」「皇国の興廃この一戦にあり」と日本海海戦を前に今に残る文学的な電文の起草者でもあった。
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 秋山真之像。日本海海戦の砲弾が あしらわれている
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●道後温泉
道後温泉といえばそのシンボル、木造三層楼の明治27年(1894)に建てられた本館だ。平成6年(1994)には温泉施設としては、日本ではじめて国の重要文化財に指定された。歴史を重ねた建物や湯殿は、全国から温泉への古きよき時代を懐かしんで訪れる年配者や、珍しさも手伝ってやって来る若い人たちで、いつも賑わっている。
建物1階の銭湯感覚で楽しめる「神の湯」と、2階には湯客がくつろげる大広間がある。大広間は浴衣に着替えて、お茶とお菓子が出される。「霊の湯」は名物の坊ちゃん団子を味わいながらゆったりとした贅沢な時間が過ごせる。個室もある。
/「神の湯」の基本料金は400円、「霊の湯」は1,200円、TEL 089-921-5141
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本館東側には皇室専用の湯殿があり、玄関口も別。明治32年に建てられた桃山時代風の優美な浴室で、畳敷きの中に湯槽がある。
金泥絵巻の室内張り、天井は高麗張りの桐の三枚重ねと、とても湯殿とは思えない豪華な造りとなっている。
/見学料 300円
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 道後温泉の裏手に閉ざされた 玄関があった
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●坊ちゃんカラクリ時計と足湯「放生園」
道後温泉駅前のカラクリ時計は平成6年(1994)、本館100周年を記念として作られたもの。午前8時から午後10時まで、1時間ごとに夏目漱石の小説「坊ちゃん」の登場人物が現れ、時を打つ。
その近くには、気軽に立ち寄れる足湯がある。明治時代に使われた湯釜からお湯が湧き出ている。観光に疲れた人たちの憩いの場でもある。
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 カラクリ時計
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 カラクリ時計に並ぶ足湯
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●東京・根岸
四国から東京へ帰って間もなく、正岡子規が東京で居を構え、母・八重と妹・律と暮らした根岸の家「子規庵」を訪ねた。JR日暮里駅から旧王子街道を鶯谷方面へ歩きはじめて間もなく古い建物の団子屋に行き合った。「羽二重団子」店だった。
子規をはじめ夏目漱石、森鴎外、伊藤左千夫、高浜虚子など、日本の文学・美術の巨匠たちも訪れた店。創業は文政2年(1819)、190年もの歴史を持つ。子規の歌や漱石の「我が輩は猫である」などにも登場する店内には、当時の生活用品なども展示されている。
/昔のままの団子2本とお茶が付いて 462円、TEL 03-3891-2924
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 今の柳橋
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 団子は昔ながらの味だと聞いた
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◇柳橋たもとにある子規の句
春の世や女見返る柳橋
贅沢な人の涼みや柳橋
よく学び、よく遊んだ明治の学生。「デカンショ節」はデカルト、カント、ショペンハウエルなどの難解な勉学に取り組み「あとの半年や寝て暮らす」の意気込みだった。
子規も元気な頃、柳橋で遊んだのか、それともただ見物だけだったのか…。風情のある銅板の絵と子規の句は印象的だった。
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 柳橋のたもと、銅板に 刻まれた子規の句
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●子規庵
昔ながらの狭い路地が入り組んだ一画にある。もとは旧加賀藩前田家の下屋敷の侍長屋であった。子規はこの家で病床に伏せながらも精力的に活動、句会歌会の場として、多くの明治の文豪や俳人、画家などが集まった。
「をとゝひの へちまの水も とらさりき」と最後に詠った庭のヘチマも植えられていた。空襲で焼けた跡に、昭和25年(1950)再建された。34歳と11ヶ月の生涯を終えた6畳間もそのまま再現されている。
/入館料 500円、TEL 03-3876-8218
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 子規庵。再建され今はブロック塀がある
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●大龍寺
日暮里から山手線でふた駅、田端にあるこの寺に、正岡子規を真ん中に母と妹の墓がある。東京の中にありながら、墓地は意外に広い。案内板も目印もないので、むやみに墓石の間を歩きまわるより、寺の人に子規の墓を訪ねることを伝え、教えていただくことにしたい。
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 子規の墓所のある大龍寺
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 正岡家の墓所。子規を真ん中に 母・八重(右)、妹・律の墓石が並ぶ
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○愛媛県内のニッポンレンタカー営業所
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- ・松山城
- 伊予鉄道株式会社が経営する松山城の情報サイト。歴史・沿革やみどころ、豆知識などが見られる。
取材:2009年12月
※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。
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